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勝たずとも欲しがってよい

何か書きたくてパソコンを開いた。明日は休みなので、少し、書きたい。

 

と思っても何も書くことがないので、何かネタはないかと自分の過去のツイートを見返したが、何も思い浮かばなかった。

 

少し前にこんなツイートをしていた。

「人生、もっと楽しくなければならない。
そんな調子のメンタルなので、風呂に浸かって自分の気持ちに触れて苦しくなる遊びをしようかな。感情を言語化して整理、は苦手なのでできない。」

 

そういえば感情を言語化して整理するのは本当に苦手だなと思って内省していると、ふと、なんで俺はブログ記事を上げたい衝動に駆られているんだろうと思った。

これは記事にできる。しよう。したい。

しょうもない理由づけだが、感情を言語化する練習にもなるしね。

 

 

 

昔から色々なことを我慢する性分だった。

親からは清貧たれと教育を受けてきた。

 

ジュースは贅沢品である。お菓子は嗜好品である。ジャンクフードは体に悪い。

親の徹底的な教育は細部にまでわたり、まれに口にする清涼飲料水は小学校で草むしりの行事なんかをやったときに出てくるオレンジジュースぐらいだった。

本当はもっといろんな場面でジュースを飲む機会ぐらいはあったんだろうが、それぐらいしか思い出せない。

 

マクドナルドも数年に一度食べる機会があるかどうかと言ったところだった。

それほどに甘味やジャンクフードからは遠い地点に生きていた。

 

おもちゃに関してもあまり買い与えられた記憶はない。

というか、親の検閲の元に与えられるおもちゃが多かったように思う。

 

多くのものを買い与えてもらっていたように思うが、テレビゲームの類に関しては全て自分でお金をため、そのお金から捻出するように求められた。

買うなと止められることはなかったが、静かに検閲を受けていたその構造に違和を感じていたのは覚えている。

 

 

親の教育の賜物か、以前の記事でも触れたが、かなり物持ちはいい方だと思う。

これは親の教育によるいい影響だと思う。

しかし、負の側面も存在する。

我慢しすぎることだ。

 

「我慢は美徳である。」

 

清廉たれと教え込まれた自分にはそういうイコールが成立していた。

一般的にも、我慢は美徳たりうるだろうが、ものには限度がある。

僕の場合は、我慢を過ぎて鈍感にまで発達している。

 

僕にとって我慢をすることは当然の状態であり、何かを我慢していない状態はない(ことに最近気づいた)。

生活費は最低レベルにまで切り詰め、月の食費が1万円を切った時代もあった。

肉は120円/100gのものは高いと感じるし、100円を超える野菜は買うのに逡巡する。

ボディソープ・シャンプーはドラッグストアの中で最も廉価なものを選び、コンディショナーやリンスは贅沢品だった。

これが僕にとっては普通で、我慢をしているという感覚は一切なかった。

 

その感覚がないまま、心も少しずつ貧しくなっていた。

 

我慢を超えて鈍感になっていた心はストレスを感知できず、いつの間にか髪には多くの白髪が混じり、手はひどく荒れていた。

それでようやくストレスの存在を認識するが、心は依然としてどこ吹く風で、ストレスが理解できない様子だった。

最近はよく周りに人がいない状況で奇声をあげたりしている。

過去の嫌な出来事が定期的にフラッシュバックし、唇を強く噛み締め、そこでようやくストレスを認識する日々が続いている。

 

自分の感情を言語化するのもそうだが、自分の感情に気づけるようになりたい。

楽しい気持ちには気づけるが、悲しい気持ちはもう何年も感じていないように思う。

 

今の僕には感情が足りない。

小学生の時分の気持ちを取り戻していきたい。

友達を遊んで心の底から楽しかったこととか、自分ばかりが負けて悔しかったこと、全部取り戻していきたい。

 

清貧たれという呪いが感情の放出を縛り続けるのは、そろそろ終わりにしていきたい。

 

 

取り戻せ、感情。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そういえばなんで記事を書きたいと思ったんだっけ?

 

 

少し考えたけどわからないから、まだ感情を取り戻すのは先になりそうだなと思った。

 

 

 

 

 

アインシュタインの人