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幸福論

この記事は、自分がこの先どんな人間に成長・退化していったとしても、このことだけは忘れないでいるための備忘録です。

特に面白くも無いし人によっては不快かもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


片田舎で生まれ育った幼少時代は、特に「毒」というものが見当たらない愛に溢れた両親と友人のような兄に囲まれ、自然と戯れることが多かった。

 

 

 

 


学生時代は、いじめや暴力沙汰に巻き込まれることも無く多くの友人と時を共にした。*1

 


色んなバックグラウンドを持つ友人がいたが、そういったものから発生するいわゆる壁のようなものを感じさせないくらい、友人たちは分け隔てなかった。*2

 


ありがたいことに勉強も人よりできる方だったから、授業やテストでつまづくということも無く、逆にそれに対して両親から過度の期待を抱かれるといったようなプレッシャー的な何かも無かった。

 

 

 

 


思春期以降は異性と良い感じになることも出てきたが、特に大きな問題は無く、どこにでも転がっている絵に描いたような「青春」みたいなやつを謳歌した。

 

 

 

 


大学に入って成人しても、特にこれらの生活に変わりはなかった。

 


学費や教科書代といったものを自分で工面するということは無かった。

 


そんな感じだから、もちろん奨学金も大学院卒業までほとんど借りることはなかった。

 

 

 

 


両親は「教育に繋がりそうなもの」に関してお金を出すことを惜しまなかった。

 


例えばで言うと、漫画はダメだったが、小説や評論や自己啓発系の書籍は全てお金を出してくれた。*3

 


申し込んでも絶対継続してできないと言ってきたくせに、進研ゼミなどもやらせてくれた。*4

 


ちょっとズレてるなと思う例だと、映画についても賞を獲るような歴史的な作品については鑑賞代を立て替えてくれたりした。

 

 

 

 


大学院を卒業して、民間企業に就職した。

 


就職活動は人に比べると難航した方だとは思うし最終的に決まった企業は個人的には微妙だったが、世間一般的に見れば充分大企業だった。

 


仕事に対して特に強い熱意を持って取り組んでいるわけでは無いが、これと言って大きな不満も衝突も無く、会社側も自分をそれなりに高く評価してくれたし、色々な要望も聞いてもらえてる方だった。

 

 

 

 


また、人生の各段階において、両親以外の指導者にも恵まれていた。

 


学校の先生、部活の顧問、会社の上司など、その人が周りにどう評価されているかは別として、自分のことをよく理解して受け入れてくれていたと思うし、取捨選択こそしたが、特に不満も無く助言を受け入れてきた。

 

 

 

 


健康面も至って問題無かった。

 


肉体的には、先天性の持病こそあったものの、これまでの人生で入院などしたことがないし、もっと言えば骨折さえ無かった。

この前返ってきた健康診断の結果も、要改善はあるものの、一般的な数値だった。

 


精神的にも、自分でも呆れるぐらい能天気で、嫌なことがあっても2〜3日でケロっと忘れてしまうほうだった。

 

 

 

 


運も良かった。

 


これまでに財布やケータイを落としたり失くしたことは無数にあるが、一度も無傷で戻ってこないことがなかった。

 


地元は片田舎だったが、ちょうど自分の世代ぐらいから小中学校の改革や地域の開発が進行して、ちょっと嫌な言い方をすれば、平均的な民度が高かった。

 


自分で「これは大失敗をやらかした」と思うようなことでも、相談したり祈ったりしていたら、大抵は杞憂に終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つまり、これまでの人生を振り返ると、驚くほど不幸なことが少なく*5、驚くほど幸福なことが多かった。

 


幸福度と不幸度に数値があるとして、幸福度引く不幸度の数値でランキングを付けるとすれば、自分は世界中で上位5%以内には間違いなく入るだろうとさえ思う。

 


そして何より幸福だと思うのは、自分の生まれ育ってきた環境に対して、「これが普通だ」と思うことが全く無く、全てに関して「自分は恵まれている」ということを認識していることだった。

 


そして幸福であることを自覚しているということは、不幸を知っているということでもあった。

 


最近Twitterで流行っているこの文章を読んで、特にそう思った。

この割れ切った世界の片隅で|鈴|note

 

 

 

 

 

 

 


何故上記のように認識できたのかと考えると、やはりこれも環境によるものが大きいと感じた。

 


自分は不幸に遭っていないけど、友人やSNSのフォロワーには不幸な境遇の人がたくさんいた。

 


両親と確執がある人、そもそも両親がいない人、身体的あるいは精神的な障害を長らく抱えている人、恐ろしく貧乏な人、犯罪に手を染めた人、犯罪や事故に巻き込まれた人、などなど。

 


そう言った人と関わりを持つことで、自分が如何に恵まれているかを再認識してきた。

 

 

 

 


そんな風に生きてくると、自分だからこその悩みも生まれてきた。

と言っても、以下脚注に書くようにそれらは結局無駄な悩みだが。

 

 

 

自分みたいな恵まれた能天気な人間が接することで、不幸な境遇の人は気分を害したりしないだろうか。*6

 


自分のように幸福ばかり受け取っている人間は、不幸な人に比べて深みが無いのではないか。*7

 


不幸を知ってはいるが、体験しているわけでは無いから、不幸な人々に寄り添うことができないのでは無いか。*8

 


周りの人が抱えているような不幸に自分が遭遇した時、果たして自分は正気でいられるだろうか。*9

 


これまでがあまりにも幸福だった分、この先の人生で大きな不幸に遭遇するんじゃないだろうか。*10

 

 

 

 

 

 

自分だからこその怒りもあった。

 


自分のように限りなく不幸が少なくそれでいて幸福で、なおかつ不幸を知らなかったり、「自分は普通だ」と思っている人間に対する怒りだ。

 


まるで自分がこいつと同じなんじゃないかと思って無性に腹が立った。

 


でも実際は、同じなんじゃないか、では無くて、他人からすれば同じだった。

 


違いは「自分が普通である」と自分自身で思っているか否かの違いであって、他人にはそんなことは関係の無い話だから。

 


それが分かっているから、余計に腹が立ったりした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


まとめ

 


・自分は明らかに恵まれた環境に育ち、明らかに不幸に遭遇することが少ない人生である。*11

 


・自分が恵まれた人間であることを自覚していて、今後も自覚していったほうがいい。

 


・「不幸を知らない」という不幸を今後抱えないように、多くの人と関わりを持ちたい。

 


・人との関わりにおいては幸不幸など関係無く、隔たりなど無い。

 


・自分と他人の幸不幸に関する悩みは大抵考える意味が無く、答えは決まっている。

 


・自分が幸福すぎるからと言って誰かに遠慮することなど特に無いし、誰かを哀れむ必要も全く無い。

 


・他人は勝手に自分を評価するし、自分も勝手に他人を評価している。

 


・とりあえず自分は現時点で幸福なのだからめんどくさい悩みは捨てたほうがいい。

 


・幸福に恵まれすぎたことで逆にひん曲がってしまった性根をへし折った方が良い。

 

 

 

 


以上。

*1:巻き込まれなかっただけで、あったにはあったが

*2:片田舎だから

*3:自分から申告しなくても、新しく書籍を手に入れたことを発見すると有無を言わさずくれた。

*4:結局1〜2ヶ月でやらなくなった

*5:自覚していない不幸はあるだろうが

*6:自分勝手で失礼な悩みだ。大抵の人はそんなこと気にも留めないし、不幸な人ほど優しかった。

*7:これも失礼な悩みだ。人間性は深みとかいう抽象的な表現で測れるような代物では無い。他人は他人なのだから、幸福ならばその方がいいに決まっている。

*8:そんなことは無かった。それは幸不幸の問題では無く、人間性の話だから。区別せず、壁を作らず、理解し、優しさを持てばどんな境遇の人も大抵は受け入れてくれるものだから。

*9:答えはきっとYesだ。多くの不幸な境遇の人が今をきちんと生きているように、自分も不幸を抱えつつきちんと生きるのだろう。

*10:質量保存の法則じゃないんだから、そんなことは考える必要が無い。そして人生というのは一日の積み重ねだから、突発的で自分でコントロールできない事象で無い限り、選択的な部分で不幸に遭うことは少ないのだろう。そういう風に生きてきたのだから。

*11:少なくとも20代までは