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誰の為に生きるのか〜メンヘラクソ野郎のみなさんへ〜

みなさんは誰の為に生きていますか?

自分の為に生きている人、誰か1人の為に生きている人、誰か複数人の為に生きている人がいると思います。

さて、私たちは誰の為に生きるのが正解なんでしょうか。ここで言う「正解」とは他者への依存や独りよがりを避け、社会を円滑に渡ることのできる心のありようのことを指しています。誰の為に生きれば“よい”生き方を実践できるのでしょうか。

 

まずは「自分の為に生きるべき」か「誰かの為に生きるべき」かに大別して考えてみましょう。“誰か”の単複については今は無視します。

アインシュタインの名言にこんなものがあります。

誰かの為に生きてこそ、人生には価値がある。

なるほどさすがアインシュタイン。いいこと言いますね。

誰かの為に生きるとは喜捨に通ずるものがあるかもしれません。誰かに施しをすることで功徳を積む。誰かに頼りにされることで生きる意味を感じる。ヒトは社会的な動物ですからね。そこに人生を位置づけるのは正しいことかもしれません。

 

では、自分の為に生きる派の意見も考えてみましょう。

THE ORAL CIGARETTESの接触という曲の歌詞にこんなものがあります。

誰かのために生きるなんて苦しいだけじゃないか?
君もなにも変わりやしない 僕も一緒だ
裏切ってくんだろ?

なるほど…なるほど……。僕自身もメンヘラクソ野郎なので気持ちはとてもわかります。一般的なメンヘラクソ野郎がどう考えてるかは知らないですが、僕の場合は「幸せがあるから不幸が生まれる。最初から幸せなんてなければ不幸も生まれない。」みたいな思考をしています。期待をするから裏切られる、出会いがあるから別れもある、だからそもそも期待をしなければ、出会わなければつらい思いはしなくていいんだ、と。つまり、自分でコントロールのできない他者に望みを抱かず、自分の為だけに生きていれば幸福は訪れる、といった感じですね。

 

さて、困りましたね。どちらの意見も正しく、魅力的に見えます。自分の為に生きるのもきっと正しいです。誰かの為に生きるのもきっと正しいです。

ここで「誰か」の単複について考えましょう。つまり誰か1人の為に生きることと、誰か複数人の為に生きることについてです。

Twitterでバズっていたツイートを参考にすると、「依存先を1人に絞るから立ち行かなくなる。複数の依存先を持っていれば負担は軽減される。」という旨の話があります。なるほど、これもたしかにそうかもしれません。誰かを頼りたくなった時に誰か1人に頼り切ってしまえば、その人は嫌気がさすでしょう。ですが、依存先を恋人、友人、親、など複数持っていれば、誰か1人に頼りすぎて嫌がられる事態も防げるかもしれませんね。

こう見ると誰か1人の為に生きるのは悪いことのように見えてきます。ただ、少し考えてみてください。将来は誰か伴侶を見つけて、その伴侶の為に、ひいては自分の子どもの為に生きることになります。少なからず、誰か1人の為に生きる期間は訪れるはずです。どうしたものでしょうか。

 

ここでこの解決策として私見をひとつ。

僕はこう思います。「基本は自分の為に生きるべき。自分以外にも手が回るときはそのときは誰かの為に生きればよい。それは誰か1人でも複数人でも構わない。」というものです。

喜捨の考え方も基本的にはそうです。経済的に余裕のある者が、余裕のない者に施しを与えるのです。自分のこともままならないのに、誰かのために尽くすのは愚策というものです。過去の僕も含め、そこらへんをキッチリ理解していないメンヘラクソ野郎が世の中には跋扈しているように思えます。「あなたと別れるぐらいなら死んだ方がマシ」だなんて発言は、自分の為に生きられないような人が自己の存在意義を他人に丸投げしているから出てくるものです。それは「正解の生き方」とは程遠いものでしょう。

まずは自分が自分の為に生きているかを再確認しましょう。恋愛や生きる意味なんかの話はそこからです。自分で自分を満足させられるように考え方、生き方、人間関係を見直していきましょう。もし、あなたが自分の為に生きていない人ならば、嫌いなものは全て遠ざけ、好きなものばかりで自分を取り巻くのです。八方美人になる必要は全くありません。

メンヘラクソ野郎のあなたに幸あれ。

 

 

 

アインシュタインの人