仮説トイレ

わかられた…

なぜYUIの歌がこんなにも好きなのか〈前編〉

今回は「なぜYUIの歌がこんなにも好きなのか」ということについて書いていきたいと思います。

本当はひとつの記事で収める予定だったのですが、あまりにも長いので前後編に分けることにしました。まずは前編にお付き合いください。

YUIとはなんぞや?というかたはこちら。↓

YUI (歌手) - Wikipedia

 

この間、とあるメーンメンバーの好きなアーティストの歌をおすすめしてもらった。そしてその勢いのまま、3日間くらいかけてそのアーティストの歌のほぼ全曲を聴き倒すという試みをしていました。

 

その時に音楽のアプリに登録したため、他のアーティストの曲も色々聴いていて。
ふと「私はYUIの歌めっちゃ好きだよな」と思って、でも別に新曲が出るたびに追っていたわけでもないし、声やビジュアルが特別に好きだったわけでもなく。
なんでこんなに好きなんだろうかということをこの際に整理してみようと思い立ち、この記事を書いています。

 

YUIの歌を初めて聴いたのは中学生の頃だったと思う。
当時所属していた吹奏楽部で「CHE.R.RY」を演奏することになった頃にYUIの存在を認識し始めた。

歌番組で「CHE.R.RY」を歌うYUIを見ながら、『恋しちゃったんだ~♪』みたいな甘い歌詞には収まり切らない何かを薄々感じていた。と思う。ハッキリと覚えてはいないけど、何かしらのシンパシーを感じた気がした。

 

「CHE.R.RY」以外のYUIの曲を聴いてみたいと思い、なんとなくの気持ちでアルバムを借りてみた。それが『CAN'T BUY MY LOVE』。

この1枚は私の人生に一番影響を与えたアルバムだと言ってもいいかもしれない。学生だった私は、大人に対しての嫌悪感とか日々のやるせない気持ちとかをYUIの歌で消化していたのだと思う。

 

とか言いながら、改めてYUIWikipediaを読んでみると知らないことだらけでビビる。全ての曲を聴いてきたわけではなくて、ひたすら2枚のアルバム(『CAN'T BUY MY LOVE』と『GREEN GARDEN POP』)を聴き倒してきただけなのだけど、それくらい惹き付けられる何かがあった。そして今もずっとある。

 

ということで、特に好きな曲を挙げていき、その何かを探ってみようと思う。

 

①How crazy

How crazy

How crazy

  • YUI
  • J-Pop
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

 

『CAN'T BUY MY LOVE』の1曲目。いきなり衝撃を受けた曲。
学生の頃の私は、どうも大人に対して信頼し切れないような気持ちが強かった。私のことを思って言ってくれたであろう言葉も、してくれたであろう行動も、当時の私にとっては嫌悪感を抱くだけのものだった。
いまとなってはバカだったなぁと思うのだけど、当時の私はそれが精一杯だったんだよなと思う。

YUIの歌詞にそんな気持ちを代弁してもらっていた。

(前略)

尊敬できない大人のアドバイス
アタシはあなたみたいにはなりたくないと思った

(中略)

How Crazy わかったようにアタシのこと話すのはやめてよ
How Crazy 深い海に沈んでゆく船から逃げてきたの

夢にlove love loveいつも

純情じゃいられない How Crazy

一言で言うと、鬱憤をぶつけまくった歌。

 

②Rolling star

Rolling star

Rolling star

  • YUI
  • J-Pop
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

 

youtu.be

『CAN'T BUY MY LOVE』2曲目。
2曲続けてドーン!バーン!みたいな、押して押して押しまくる!攻めて攻めて攻めまくる!!!という流れが最高。

もう我慢ばっかしてらんないよ
言いたいことは言わなくちゃ

 

この一言で始まる出だしよ。良い…。
日常はそんなに上手くいかないけど、でもそれでも生きていかなきゃでしょ、進んでいかなきゃでしょ、そしてどうせ進むなら攻めなきゃ損でしょという曲。
疾走感のあるメロディーが好き。

 

③Please Stay With Me

Please Stay With Me

Please Stay With Me

  • YUI
  • J-Pop
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

 

youtu.be

GREEN GARDEN POP』収録。
2曲目までのような強気に攻める曲が私の思うYUIの真骨頂だけど、恋愛に関する曲もかなりグッとくるものが多いです。

会いたいと
言えば
また苦しめてしまう?
涙あふれるのに・・・

 

YUIの恋愛についての歌詞の何が良いかというと、相手の気持ちに寄り添おうとしている点です。
会いたいと言いたい、けど、相手が苦しむから言えない、という……このジレンマ!!!!!!!!

 

会いたいよー!って素直にぶつけるんじゃなくて、自分の感情と相手の感情を天秤にかけてしまう不器用さにグッッッッと来ます。

今でこそ、会いたいならば例え100%会えない状況でも「会いたいよ」と気持ちを伝えることが大切だなぁと思うようになってきましたが、それはさておき、根本的にはこういう気持ちがあるよねと思う。

 

また「会いたいのにあなたは気付いてくれない」とか「会いたくて泣いているのは私だけ」みたいな、相手に矢印を向けた歌詞ではない、というのがかなり好きなポイントなのだと思う。

会いたい気持ちを自分で消化しようとして、それを歌詞にしている、あくまで自分に矢印を向けて書いている歌詞。

 

YUIの恋愛の歌には「あなた」が出てくることはあるが、「あなた」に向けて歌っている歌は1曲も無いんじゃないかと勝手に思っている。

 全ての曲に共通することだけど、YUIはあくまで自分のために、自分の気持ちを素直に歌詞にしているように見える。
自分の感情に対して媚を売ったり言葉を偽ったりしない愚直さが、惹かれるポイントなのかもしれない。

 

というわけで、少しずつYUIに惹かれる理由が分かってきたところで前編を終わります。
この勢いのまま続けたいんですけど、このままいくと5,000字近くになってしまい地獄なので…。

 

後編は、好きな曲を残り3曲(予定)について書いたのちに、YUIの活動休止と現在の活動について、そして結局YUIの何が好きなのか、私なりに思うことを書いてみたいと思います。

好きなことについて書くとひたすら書けるけど、動悸息切れ目眩がする気持ちになる…。好きは楽しくてしんどい。

 

それではおやすみなさい。また次回。

押し通おおおおおおおおおりたい!!!!

100の質問

8. 苦手な動物は?

 

A. 鹿

 

床下は曇りなき眼(まなこ)がめちゃくちゃ苦手である。

 

曇りなき眼に見つめられた瞬間

蛇に睨まれた蛙の如く身動きが取れなくなり

ファイナルファンタジーで敵とエンカウントした際に起こる画面エフェクトの如く視界は歪み

脳内ではFF10のノーマルバトル(https://youtu.be/zNoem1VEtyc)が再生される。

 

その緊迫感はアムロとシャアのフェンシング対決にも引けを取らず、思わず

ララァーーーーーーーーーー!!!!!!!!」

と叫びたくなってしまうし

サウロンの目に見つめられたフロド・バギンズのように心臓が締め付けられるかのような錯覚に陥る。

 

今風に言うと曇りなき眼は「無理...」である。

 

 

 

曇りなき眼とは、文字通り瞳に一点の曇りもない状態を指す。

邪 or/and 複雑な感情を抱かず

ただ一つの思いを瞳に転写し

まっすぐとこちらを見ている。

そういうものを曇りなき眼と呼ぶ。

つまりは、表情がどんなものであろうと曇りなき眼を相手に向けることはできる。その顔が笑顔だろうが、精悍だろうが、怒りで歪んでいようが、瞳に陰りがなければそれは曇りなき眼である。

 

 

 

床下が人生で初めて曇りなき眼と対峙したのは、4歳の時だ。今でも良く覚えている。両親と共に映画館へ行った時のことだった。入った劇場ではジブリの「もののけ姫」が上映されていた(もののけ姫 - Wikipedia)。

今でこそ

ジブリについて語らせれば夜を3回またいでも終わる気配がない」

と友人に言わしめた床下ではあるが、ベイビーでプリティな頃の床下はジブリのいろはなど知る由もなかった。

そんな無垢な状態の床下は、「もののけ姫」を観るや否や、恐怖で涙が止まらなくなってしまった。

 

何故か。

 

この映画、曇りなき眼がめちゃくちゃ出てくるのである。

知っている人しか分からない話だが、シシ神様に始まり、ヤックル、オッコトヌシ、モロ、猩々たち、おまけに主人公のサンとアシタカ、どいつもこいつも曇ってねえのだ。純粋な思い、純粋な怒り、純粋な虚無、純粋な笑み、純粋な献身、どれもこれも一点の曇りもない。というか曇りなき眼という単語も、もののけ姫の劇中で使われているものだ。

 

ベイビー床下はそれら全てを脳内で言語化したわけではなく、生物としての本能の部分でダイレクトに感じ取っていたのだ。泣き叫ぶ床下は父に抱えられてあえなく劇場の外へ退場となってしまった。しばらくは恐怖で観直すこともかなわず、観ることができるようになったのは中学に入ってからだった。

 

 

 

しかし、もののけ姫に慣れた今でも、曇りなき眼というのはどうにも苦手で適切な対応策をとることができないでいる。

例えば、

赤子に見つめられたとき

純粋な夢追い人と会話をしたとき

まるで顔に「ヤンデレ」とでも書いてあるかのように上下左右四方八方全てが「ヤンデレ」という概念に包まれた異性に告白されたとき

床下は相手を直視することができなかった。

 

それどころか、膝はボルテックスミキサー(有機実験で使う)のようにガクガク震え、顔は引きつった半笑い状態になり、中二病だった頃に回帰するように「やれやれだぜ...」などと呟いてしまう。

ニート漫談のガリガリガリクソンのように「お~こわっ!」などとおちゃらけるメンタルを床下は持ち合わせていない。

赤子ならば自然と目をそらしてしまうし、夢追い人は目を合わせずに相槌を打つだけの機械と化してしまうし、ヤンデレには気圧されて思わずOKしてしまい後々痛い目にあいそうになった(そのうち書きます)。

 

 

 

鹿は、上述した奴らと同等、いやそれ以上の曇りなき眼を有している。

東大寺に行った時

宮島に行った時

北海道に行った時

峠を攻めた時

そこに鹿はいて、じっと床下を見つめていた。

あの床下の全てを見透かしているような瞳は何にも代え難い恐怖だ。床下は「何見てんだよぉ!」と声を荒げながら早足でその場を通り過ぎることしかできなかった。

周知の事実だが、そんな行動は曇りなき眼に打ち克ったことにはならない。奴らに対抗するには、奴ら以上の「曇りなき眼」を身につけるほか無いのだ。

 

 

だが、残念ながら床下は人間として生まれてしまった。

 

生物の中で、人間は瞳を汚していく唯一の生き物だ。自分の生きる社会が広がるにつれ、人目を気にし、周りに合わせ、心にもない表情をする頻度が増えていく。

ご多分に漏れず床下もそのうちの一人であり、今更曇りなき眼の向け方など知るはずもない。

 

或いはもし、「もののけ姫」を映画館で観たあの時、シシ神様やオッコトヌシにも対抗しうる精神を床下が持ち合わせていたのなら、今頃はアシタカのような人間になれていたのかもしれない...。

非常に残念でならない。今の床下などジコ坊程度の人間力しか持ち合わせていない。悲しみにくれている現在の床下にピッタリなBase Ball Bearの曲があったから貼っておく。辛い。

 

その眼の中で僕はどんな表情していたろう? わからない
花のようにさよなら 涙しか溢れない 嗚呼
その眼の中で僕はきっと生きていたから 堪らない
鳥のようにさよなら 笑顔なんて忘れたよ 忘れたよ 忘れたよ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

薄々感づいているかもしれないが、今回の記事で伝えたかったのは

 

 

 

 

 

 

もののけ姫を観ろ、話はそれからだ

 

ということだけだ。それ以上でも以下でもない。終わる。

お前らの心が汚い

100の質問
7.好きな動物は?

 

A.カイコガ

 

今日は床下の普段やっていることについて少し話そうと思う。

 

床下は現在、とある山奥の大学院で研究活動をしている。高校で化学を学んだことのある人なら聞いたことはあるかもしれないが、「有機化合物」の研究をしている。

有機化合物というのは、端的に言えば炭素をメインに構成される分子のことを指す。我々の体内に存在するタンパク質、DNA、そして我々が摂取する食物、これらは全て有機化合物である。

もっとわかりやすく言うと、「金属っぽくないもの」は基本的に有機化合物と思ってもらっていい(厳密には違うが)。

その中で床下は特に「生物が作り出す毒物」について研究している。毒の研究が人類にどう貢献できるのかというメディア風の問いかけに答えるならば(大学は基本的に見かけ上人類のためにならない研究をやる場なので愚問なのだが)、「新規治療薬の開発につながる」とでも言おうか。

 

まず、有機化学の世界では「毒と薬は紙一重」というのは一般常識だ。全ての化合物は人間に対して何かしらの作用を起こすのだが、その作用が強すぎれば毒となり、逆にちょうど良ければ薬となりうる。

 

例えば我々人類全員が必要とする水の致死量は8 Lくらいだし(飲み過ぎで胃が破裂するわけではない)、ビタミンにも致死量がある。

逆に麻薬として恐れられるコカインは医療現場では局所麻酔薬として使われているし、自然界最強の毒であるボツリヌストキシン(大さじ一杯で日本国民を半分くらい殺せる)は最近ではボトックス注射という名で皮膚のシワ取りなどに用いられている。

 

つまり、新たな毒を見つけるということは、生物に対する新たな作用を見つけることと同義で、それを解明することで未だ不治の病とされている疾病に対抗しうる治療薬ができるのではないかというのが、床下の主な研究目的である。


具体的には、自然界から取ってきた菌を育て、お茶やコーヒーのように成分を有機溶媒と呼ばれる液体を使って取り出し、それを実験動物に投与することで毒性を見て、毒性を示した成分が新しい有機化合物かどうかを分析するという研究だ。

 


その実験動物として用いたのが、回答に記したカイコガだ。漢字だと蚕とも書き、言わずと知れた「シルク」の生産者だ。床下は元々蛾という生物が苦手で仕方なかったのだが、このカイコガを飼育して以来蛾の可愛さに魅了されてしまっている。なかでもカイコガは特別に可愛い。

 

まあまずは写真を見てくれ。

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f:id:meeeeeeeeen:20171012001319j:image

 

 

はい可愛い。閲覧注意などと記載するのはもってのほかだ。まるで妖精のようじゃないですか?

この気持ちを歌にするなら間違いなくBase Ball Bearの「どうしよう」という曲を歌うしかないだろうと思ってしまうな。

 

どうしようもないほど
君のことばかりを考えてしまう
どうしようもないこと
浮かべては消す吹き出し
どうしようもないほど
君のことを好きになってる
どうしようもないほど 
伝えたい この気持ち ああ!ああ!

 

この曲の中に「青春が終わって知った 青春は終わらないってこと」という歌詞があってこれがまた最高なのだが今回の話とは全く関連しないので最高という旨だけお伝えしておきます。

 

 

そしてこのカイコガ、果てしなく儚いのだ。

 

カイコガはシルクの生産者として長いこと人類に飼育されて生きてきた所謂「畜産動物」だ。つまり、人間が飼育しやすいように進化してきた生き物なのだ。

 

まず幼虫は、野生で生きていくための防御手段を全く持たない。アゲハ蝶の幼虫は嫌な匂いを発する角を持っているし、毛虫は見ての通り体表の針のような毛によって鳥や爬虫類から捕食されるのを防いでいる。

弱肉強食の自然界で生き抜いていくために、多くの生物は上記のような防御手段を持っている。

しかし、カイコガの幼虫はそのような類の能力を持ち合わせていない。それどころか、足の力が退化しているため枝を登ることさえままならず、ひっくり返れば起き上がるのにも時間がかかる。野生に放たれれば我先にと外敵が群がる格好の標的なのだ。


そして現実世界に舞い降りた妖精ことカイコガの成虫。成虫もまた幼虫と同様に防衛手段を持たない。それどころか、翅は退化し飛ぶこともできない。そもそもシルクの元となる生糸は蛹の入った繭を茹でることで得るため、殆どのカイコガは成虫へと羽化する事なく死に絶えてしまう。

 


どうですか、めちゃくちゃ愛らしくないですか。

 

人間の力を借りなければ全く生きていくことのできない生物、そしてその生物を飼育すること、毒物を注射することの罪悪感、エゴで生まれた生物に可哀想とか可愛いというエゴを重ねているという感覚、全てをひっくるめて愛らしすぎる。

 

 

これ以上カイコガへの愛を書き連ねると異常性癖の持ち主だと勘繰られそうなので、有機化学の話に戻ろうか。

 

有機化学という学問を勉強していると、日常に溢れる多くの現象を理論づけることができるようになる。

 

どの食材にどの有機化合物が含まれているか何となく分かるため、毎日の栄養バランスを直感的に計算できる

 

水素水や酵素ドリンクなどが本当に健康に寄与するものなのかを判断できるようになる(結果として芸能人や著名人の頭の良し悪しが分かるようになる、藤原紀香とか)

 

お酒がどのようにして出来るのか分かるようになる

 

本屋に入るとトイレに入りたくなる現象(青木まりこ現象と呼ぶらしい)が何故なのか分かるようになる

 

ニンニクを油で炒めるのは何故なのか分かるようになる

 

速水もこみちが何故毎朝のように料理にオリーブオイルをダブダブかけるのか分かるようになる

 


この世界に存在する全てのものは化合物の集合体であり、その多くが有機化合物だ。つまり有機化合物について学ぶということは、世界を学ぶことに等しいものだ。

 

 

前回の記事の最後に「抹茶味のお菓子の色素はカイコガの糞からできている」という話をした。有機化学に詳しくない者から見れば、この文言は「汚い」と思うだろう。

 

 

だが、有機化学を学んだ(大学院生の分際で学んだと言うにはおこがましいが)床下からすると、「汚い」とは一体何だろうと感じる。

 

 

例えば、お酒の話をしよう。

お酒は原料(ビールならば麦や小麦、ワインならばぶどう、日本酒ならば米)に菌による発酵の力を併せることで作り出されている。

酵母と呼ばれる菌が原料に含まれる糖を嫌気呼吸(酸素の使わない呼吸)によってアルコールに変えることで「お酒」と呼ばれるものが出来上がる(日本酒は酵母の前に米のデンプンを糖に変えるコウジカビという菌を使う)。

 

 

文章を読んでよく考えて見てほしい。

 


酵母は糖を「食べて」、アルコールを体外に「排出」している。

 

これがどういうことかお分かりだろうか。

 

お酒というのは、菌の糞でできているのだ。

 


それに限らず、この世に存在する全ての発酵食品はそうやって菌の「排泄物」でできている。

 

そう考えると「汚い」というのがどういうことなのか分からなくなってきませんか?

 

結局のところ、「汚い」というのは言葉のあやであり、「人間に何かしら悪いことをする化合物が毒となる量で存在している状態」を指してそう言うのだ。

 


そう言う意味では、

抹茶味の色素に使われるカイコガの糞も、

イチゴミルクの色素に使われるコチニールカイガラムシという虫から得られるということも、

ゴキブリとエビの皮膚の成分が全く同じであるということも、

「汚い」という感情を持つ必要は全く無いのだ。

 

 


床下としては、お酒や納豆やチーズを美味い美味いと食っている人間が、良くもまあカイコの糞が汚いなどと言えたもんだと思ってしまう。キノコなんて菌の塊を食っているようなものなのだが、皆美味しそうにパクパク食べている。

 

 

床下は以前の記事で「嫌いなものを作りたがらない」という話をしたが、その理由には上記のような背景があるからなのだ。

学問を究めるということは、真理に近づくということであり、また、「自分はまだ何も知らない」ということを思い知るものである。

「知らない」ことは罪では無いが、知らないものや得体の知れないものを「気持ち悪い」「汚い」という批判的な言葉で片付けてしまうことは罪であると感じている。

 

物事の成り立ちや性質を知れば、全ての物事に「良い点」と「悪い点」が必ずあって、差別される存在というものは基本的にない。

それらを知り、良い点を活かし、悪い点を殺し、どう活用していくかということだけを考えていけば、世界はより良くなっていくのでは無いかなぁと床下は常々思っている。

 

 

 

 

 

ところで、武道場に初キスを奪われたあの時の床下の気持ちは科学的にどう説明すればいいんですかね?見識者の方、よろしくお願いいたします。

誕生日、ありがとう

先日10/6は僕の誕生日でした。毛沢東堀北真希と同じ誕生日です。
今年の誕生日は例年にないほど数多くの方からお祝いメッセージをいただきました。本当にありがとうございました。とても嬉しかったです。

 

というわけで今日は誕生日について考えてみましょう。
詳しく言うと「誕生日、おめでとう」という文言についてです。誕生日は何がめでたいのでしょうか。


誕生日は365日のうちの1日です。その期間は一定であり(うるう年は1日増えますが)、365日経過すれば必ず巡ってくる日です。1年のうちに1日しかないのでレア度的な意味ではめでたいのかもしれません。
しかし、オリンピックやワールドカップの開催は4年に1度。レア度的にはこちらの方が高そうですね。でもオリンピック、おめでとう、ワールドカップ、おめでとう、というのはあまり聞いたことがありません。つまり、レア度的な観点からの賞賛の言葉ではないことが推測されます。(まぁ実際はオリンピックやワールドカップは4日以上継続して行われるので誕生日の方がレア度は高いのですが)

 

では何が「めでたい」のでしょうか。無事に1年が経過し、1年契約の生を更新することができたことに対する祝いの言葉でしょうか。
しかし、医療が発達し、食料も潤沢な現代において生を更新することは祝うほどの出来事でしょうか。どうやらこの線も怪しそうですね。

 

他には何が考えられるでしょう。誕生日の性質から考えてみましょう。
誕生日を迎えるということは戸籍上、歳をひとつ重ねるということです。人が大人になることを一つのステイタスとするなら若年者に対してはこの文言は正しいのかもしれません。つまり、子どもに対しては「大人にひとつ近づけてめでたい」という意味で誕生日はめでたさを持つということです。
ですが、「誕生日、おめでとう」はともすればご年配の方にも使うことがあります。まあご年配は「生きてまた歳を重ねることができた」というめでたさがあるのかもしれません。
では30代、40代、に「誕生日、おめでとう」と投げかけることは正しいのでしょうか。換言すれば30代、40代の人にとって誕生日はめでたいものであるのかということです。すでに大人である彼らにとって、誕生日は「大人にひとつ近づけるめでたさ」も「生を更新できためでたさ」も持ってはいません。
これでは誕生日が普遍的にめでたいものであることが立証できません。

 

ここで、誕生日はめでたいものであるという前提に疑問を投げかけてみましょう。
誕生日はめでたいものなのでしょうか。
こう考えてみると誕生日はめでたくない要素がボロボロと湧いてきます。誕生日の日は誕生日ということ以外に特別なことは何もなく、普通に仕事をして、普通にご飯を食べて、普通に寝る。誕生日だからといって身長が伸びたり、寝なくても活動できたり、顔が少し美形になったり、口から火が吹けたりはしません。何もめでたくはないです。
ここまでくるとめでたいってなんなんだ。何がめでたくて何がめでたくないのか、その基準はどこなんだ、みたいな話になりそうですね。

 

そうですね、ここに「誕生日、おめでとう」の落とし所があるのかもしれません。
めでたいのかめでたくないのかは人それぞれだからめでたいと思う人はめでたいし、めでたくないと思う人はめでたくないのです。
人それぞれだなんて元も子もない結論ですが、これが折衷案としては最適なのではないのでしょうか。

 

人は何かにつけてイベントを持ち込みたい生き物です。ハロウィンやクリスマス、正月、誰かの誕生日。それぞれの日は人々がイベントを楽しむためのこじつけのようなものです。そこには恣意性しか存在せず、絶対的なめでたさなどは存在しないのでしょう。

 

ここで僕が以前、誕生日でもなんでもない日に「今日、誕生日なので祝ってください」と虚偽のツイートをしたときにメーンメンバーのnxyくんからきたリプライを紹介します。

 

 

 

 


祝え!なんでもない日!
バンザーイ🙌🙌🎂🎉🎉

 

 

 

至言ですね。もう何も言うことはありません。


さて、最後になりますが、誕生日を祝ってくださった皆さん、本当にありがとうございました。みなさんのお祝いのおかげで、僕の今年の誕生日はめでたいものとなりました。これからもよろしくお願いします。

 


アインシュタインの人

勝手に食わせろ

100の質問
6.嫌いな食べ物は?

 

A.禍々しい何かを感じる食べ物

 

まず、この話題に関しては床下の考える「嫌いな食べ物」について話さなければいけない。

 

床下は基本的に「嫌い」という感情を持ちたがらない。物や事の存在は、多数の要因が複雑に絡み合うことで構成されている。

 

前回の記事で青椒肉絲が好きな理由を「青椒肉絲だから」と述べたのと同様に、全ての物事は多くの材料が組み合わさり、それそのものとして存在している。そしてそれらは須らく、自身を認識した上で周囲に対して存在を知らしめている。

 

床下はその存在を否定したくないと思う気持ちが強い。それは、その存在を成立させている全ての要因を否定することなどできないと考えるからだ。

 

床下の愛するBase Ball Bearの「曖してる」という曲のサビではこう歌っている。

 

喜劇でも悲劇でもどちらでもねぇ
デフォルメもバイアスもねぇ
棚分けしようとすんな
曖してるのさ 曖してるのさ 曖してるのさ 曖してるのさ 君も僕も
理屈も魔法も禁止にして
漠然を抱きしめる
この腕すり抜けても
曖してるのさ 曖してるのさ 曖してるのさ
無編集の世界を

 

読んで分かるように「愛してる」と「曖してる」を掛けている。この世には愛のような「言葉じゃどうにも言い表せないよく分かんねえもの」がたくさんあって、それらを言語化することは必ずしも良いことでは無くて、曖しながら愛せばいいんだよという曲だ。

 

前回の記事で触れたが、床下はこの考えには賛同しかねる。自分の中でどうにか理論立てた考えを展開したいと思っているし、愛というよく分からねえもの選手権第1位の概念を追求することは永遠の課題だと思っている。

 

しかし最後の「曖してるのさ 無編集の世界を」というフレーズは非常に共感が強い。ただそこに存在している物事を、誰に手を加えられるでも無く存在そのままの状態で愛したいと思うからだ。だから元々ある1つの悪い要因を見つけたからといっていちいちその存在を否定したくないと思うし、床下の未だ知り得ない良い要因を見つけてみたいと思う。

 

 

 

もう少し分かりやすく言おう。

 

高校時代の床下には、どうにもいけ好かない部活の先輩がいた。

部活指導は要点をまとめていない上に長いし、口を開けば自分の話ばかりするし、

いかにもな先輩風を吹かすし、

そのくせ部内の好きな異性には媚びを売るし、

俺は部活も真面目にやってるけど学業成績は良いと声高らかに言っておきながら平気で志望校に落ちるし、

とにかく悪いところばかり目立つ先輩だった。
※以下この先輩を裏路地と称する(オシャレになるためのストレートパーマが完全に"裏"目に出ていたためストレートと"ストリート"をかけて陰でそう呼ばれていた)

 


床下が大学に入って数ヶ月経った頃、裏路地に街中でたまたま遭遇した。裏路地は一浪して床下と同じ大学に合格し、同学年となっていた。

 

床下は遭遇するなり「お前この前シカトしただろ」と全く身に覚えのない因縁をつけられ、

続いて「同学年とか関係なく先輩なんだから挨拶しろ」と説教され(その通りだが自分で言うことではない上に身に覚えが無いし今は挨拶をしたじゃないかと思った)、

ついには「そもそも俺は浪人経験も無い苦労の知らないような奴は大学生と思ってねえ」と謎の自己正当化理論で止めを刺された。

 

床下はこの瞬間

 

「あぁ、この人のことは心底嫌いだ」

 

と真に思ったものだが、同時にある景色が思い浮かんだ。

 

それは、裏路地の一家団欒の姿だった。

 

裏路地の家族など一度も見たことはなかったが、裏路地とその父母と話に聞く姉とで食卓を囲み、仲良く談笑するイメージが確かに床下の脳内に入り込んできた。

イメージの中の裏路地は幸せに満ちた顔をしていて、目の前にいる裏路地の顔とは似て非なるものだった。

 

床下は困惑し、自分は明晰夢でも見ているのでは無いかとさえ思い、その日の夜は眠ることができなかった。

長い夜の全てを思考に費やすことで、「自分は本能的に嫌いという感情をはねのけている」という結論に至った。

裏路地は確かに床下にとって嫌うべき存在だが、その裏路地も床下の知らないどこかでは愛されるべき存在として生きている。

父に愛され、母に愛され、姉に愛されてこの歳まで生きてきたはずなのだ。床下は、裏路地に対して「嫌い」という感情を抱くことが、裏路地に対する家族の愛までも否定していることと同義だと思えて仕方がなかった。

 

勿論こんな考えを表明したところで「そんなわけは無い」だとか、「嫌いと思うことは自由で、関わらなければいい」という返答が来ることは予測できる。だが、これは自分の力でどうにかなる問題では無くて、床下がこれまで生きてきた環境によって知らず知らずの内に身についてしまった後天的な本能なのだと思う。

 


そして、このような本能が人に限らず全ての物事に対して働いてしまうのが床下という人間なのである。

 

話の本筋に戻ると、床下にはウニと牡蠣という「食べられないもの」が存在するのだが、これらは決して「嫌いな食べ物」では無い。

床下の味覚が生理的に(つまり科学的に定義されている本能的には)この2つの食べ物を否定しているだけであって、先ほど定義した後天的本能は否定すべきだとは言っていないのだ。

だから3ヶ月に1回程度のペースでこれらは食べるようにしていて、「いずれ美味いと言ってやるからな」という気持ちでいる。

つまり床下にとって「嫌いな食べ物」というのは、「味覚的に受けつけないもの」ではないのだ。

 


だが床下にも「嫌いな食べ物」はある。それは「恣意性を感じる食べ物」だ。もっと分かりやすく言うならば「暗躍を感じる食べ物」と言ったところだろうか。


例えばだが、甘いタレで香ばしく焼いた豚ばら肉をアツアツの白飯の上に隙間無く置いた伝統的かつスタンダードな「豚丼」と、全く同じように作った後に丼の真ん中に温泉卵を落とした「温玉豚丼」があったとする。

 

床下はこの2つがあったら、迷うこと無く前者を選ぶ。察しの良い読者なら気付いていると思うが、別に床下は温玉が嫌いなわけではない。

 

むしろ好きだし、ただでさえ美味い豚丼に温玉をのせたらそんなのもう絶対に美味いに決まっている。

 

では何故後者を選ばないのか。

 

それは「温玉豚丼」を考案した人間の「ほら、温玉のせてやったぞ、美味いだろ、もう間違いないだろ」という感情が丼から漂ってきて、床下には臭くて敵わないからだ。

 

前述したが、物事というのは自然な状態で存在しているからこそ、長所短所こそあれど美しく、そしてそれをそのままの状態で認識したいと思っている。

しかしこの「温玉豚丼」は、第三者の介入によって完全に存在の認識を"強いる"ものとな

 

 

 

 

 

 

 

そろそろエッセイめいた文章で長々と説明するのは飽きてきたので単刀直入に言わせてもらう。

 

 

 

味変は自分でやりたいタイミングでやるから、最初っからやるんじゃねえ!!!!!ー!!!!!!!!!!!!!!!!ー!!!!!!!!!ー!!!!!!!!!!!!

 

 

 

 

他にも床下はお菓子の別味みたいなものが嫌いだ。特に抹茶。「ほら、抹茶味だぞ。お前ら抹茶好きだろ、ほらほら。」という製作者側の魂胆が気持ち悪すぎて食べていられない。つまりは入念にマーケティングされた上で作られたものというのが嫌いで嫌いで仕方ないというお話でした。

 


ところで皆さん、抹茶味のお菓子などの着色料はカイコの糞から作られているって知っていましたか?

 


次回はそれについて触れていこうと思います。

ピーマン先輩に会いたい

 

100の質問

5.好きな食べ物は?

 

A.青椒肉絲

 

床下は、一目惚れ、とか運命、という言葉に基本的に不信感が強い性分だ。

この世の中は一目惚れや運命という言葉でくくれる程夢に満ちてなどいないし、一目惚れなど一種の幻覚であってそんな一時のこみ上げる感情に身を任せるべきではない、とそう思う。

しかし、これに関して、つまり青椒肉絲に関しては、恐らくそういったものを感じていると言わざるを得ない。

 

何故か。

 

説明できないからだ。

一目惚れをした人間に「どこにそんなに惚れたのか」と問うたところで

「いや、まあ、その、なんつーか、良いなって…」

 

こんなもんである。

 

床下の愛するBase Ball BearのVo.である小出さんがアーティストの岡村靖幸さんと組んで歌った「愛はおしゃれじゃない」岡村靖幸 w 小出祐介「愛はおしゃれじゃない」 - YouTubeという曲もこう歌っている。

 

 


愛ってやつは 切実でさ 伝えたいのは
「あのさ…あのそのつまり…」

 

 

そうなんだよ、本当の愛とか、好きだという気持ちは、切実すぎてうまく言葉にできないものなんだ。

それと同じで、何が好きなのか、いつ好きになったのか、何故好きなのか、そんな青椒肉絲に関する5Wに則した質問に対して、明確な答えを用意することができない。

青椒肉絲が好きな理由を事細かに書き連ねることなど出来はしない。

だから就活の際も「好きな食べ物は青椒肉絲です!」という言葉は言わないように心がけた(そもそも聞かれなかったが)。

 

 

しかし床下は、一目惚れや運命という言葉で括られる「何か」を青椒肉絲ぐらいしか感じない人間というわけではない。

人生で一度や二度は異性に対して一目惚れのような感情を抱いたことはあるし、全く用途は分からないがそのデザインにひどく惹かれてしまい購入してしまった商品もある。

そんな時は決まって

「運命…ってやつかな…」

などとドラマの主人公にでもなったつもりで呟いてみたり

「これが人の夢!人の望み!人の業!」

と趣味の悪い仮面を被った金髪の関俊彦が自分の中に現れたりした。

 

だが床下は、そこで思考を停止させようとは微塵も思わない。先述したように、一目惚れや運命という陳腐な言葉で自分の青椒肉絲に対する思いを片付けたくなどないから。別に青椒肉絲に限ったことではなくて、理由もなく好きだと感じてしまうものは、何が何でも理由を突き止めてやるという気持ちでいる。

一目惚れや運命というものは、動物が感じる一種の本能のようなものだ。床下がもし人間以外の動物であったのなら、その感情に身を任せるのも悪くないと思う、というかそんな思いに至るまでもなく行動に移っているはずだ。

しかし我々人間は違う。言語を手に入れ、理性を磨き、文明を築いてきた。だからこそ床下は、「何か」を突き止めることは人間に課せられた使命だと思っている。

これは傲慢や他の動物への差別ではなくて、人間として生まれた者の運命だ(いや、この場合の運命は目を瞑ってくれ)。

 

 

 

ということで、今回は床下が青椒肉絲を好きな理由を5Wに則した質問に答えながら突き止めていきたいと思う。

 

 

「何が好きなのか」
分からん。これが最も根元の質問ではないか。出題者は質問順序をもう少し考えて欲しい。食材という点で見れば全て好きだ。牛肉は嫌いな人間の方が珍しいし、ピーマンやパプリカは野菜類の中でも一二を争うぐらい愛が深いし、タケノコはまあ普通だ。確かによく見れば自分の好きなものばかりだが、床下は基本的に何でも食べる人間なので、これだけで青椒肉絲に運命的な感情を抱くのは無理がある。

 

 

「いつ好きになったのか」
分からん。これが分かることはかなり解明の糸口になり得る。初めて好きになった時のことを思い出せば、何かが分かるかもしれないからだ。だが全く思い出せない。ジェイソン・ボーン並に思い出せない。小学校低学年の給食で青椒肉絲が出た時、いの一番におかわりに向かったという記憶はあることから、少なくとも0〜8歳くらいまでの間に好きになったようだ。

 

 

「どこで好きになったのか」
分からん。一つ前の質問と同じだ。分かれば苦労はしない。

 

 

「どれが好きか」
これはよく分からない質問のようで床下にはよく分かる。中華料理屋で必ず青椒肉絲を頼んでいると分かるのだが、大別して2種類の青椒肉絲が存在する。肉に片栗粉をまぶして半ば揚げ焼きしたものに野菜類を合わせオイスターソースをかけたものと、片栗粉はまぶさずオイスターソースも使わず単純な塩胡椒で味付けしたものだ。床下はどちらかと言えば前者が好みだ。この知見は収穫かもしれない。

 

 

「何故好きなのか」
本質だ…。本質の質問が来た…。ということでここまでで得た情報を総括しようと思う。


・どの食材もまあ好き
・0〜8歳くらいから好き
オイスターソース派の方が好き

 

なんだこれは…ポンコツか?

何も分かっていないのと変わらないじゃないか。そもそも5Wに則す必要は1ミリも無かった。


だがこうして感情に任せて記事を書いている中で、何となく理由が見えてきた気がする。


恐らくだが、青椒肉絲青椒肉絲であることが好きな理由なのだ。

 

 

 

 

 

待ってくれ、記事を閉じるのは止めてくれ、ここから詳細な説明に入るから。

 


青椒肉絲は肉・ピーマン・パプリカ・タケノコを細切りにして塩胡椒で炒め場合によってはオイスターソースを入れる料理だ。

 

恐らくこの工程のどれか一つでも抜ければ床下はその料理を青椒肉絲とは認めないだろう。

食材が全て入っていたとしても、それが細切りではなくぶつ切りだったら

「こんなのは青椒肉絲じゃねえ!」

と批判してしまうと思う(食うけど)。

食材の味・香り・細切りにすることで生まれる食感のコントラスト・肉やオイスターソースによる旨味、この全てが合わさってこそ青椒肉絲であり、その青椒肉絲こそ床下の愛する青椒肉絲なのだ。

 

 

床下の好きなドラマに、木村拓哉主演の「エンジン」というものがある(あらすじは以下Wikipediaから引用)。

 

 

神崎次郎(木村拓哉)は世界的にも有名なレーシングドライバーフォーミュラカーを運転し、チーム側からも絶大な信頼を得ていたが、外国人のチームメイトとのトラブルで契約を切られ、年齢的な問題もありやむなく日本へ帰国。

次郎はとりあえず次の居場所を見つけるため、以前家出をした実家へ一時居候。しかし本人の知らぬ間に父と姉は実家を利用して児童養護施設を経営していた。そこには家庭環境不良・虐待などで家族と暮らせず心に傷を負った子供たちと、その子供たちの世話をしている理想主義の保育士・朋美(小雪)、現実的な指導員・鳥居(堺雅人)らが待っていた。

子供の大嫌いな、大きな子供・次郎と、身寄りを失った子供たちとのふれあいが始まる。そして、次郎は再びサーキットに戻っていくことができるのか…?

 

 

このドラマの中に、次郎が子供達に車がどうやって走るのかを説明するシーンがある。次郎はレーサーということもあって事細かに用語を使いながら説明するが、勿論子供達は理解できない。そこで次郎は子供達それぞれの頭に手を置いてこう言う。

 

「要するに、ピストン君とか、プラグちゃんとか、シャフト君がバラバラだとタイヤ君が動かねえってこと!」

 

いやもう本当その通りですね。

その闘莉王だね(その通りの最上級)。

 

青椒肉絲も一緒で、お肉ちゃんとタケノコ君とピーマン先輩がバラバラだと青椒肉絲にはなり得ないということなんですよね。

つまり床下は料理に関してはステレオタイプが好きな古い人間ということだ。

 

 

ところでピーマン先輩は絶対スタイルの良い美人な女の先輩だと思いませんか?その上細切りにされてるって、セクシーすぎるよな。

 

 

 

ということで今回は何が言いたかったかと言うと、我々人類は支え合って生きていこうじゃないかということなんですね。

 

※論理の飛躍に関するご質問ご意見についてはカスタマーセンターにお尋ねください。

絶望愛好家

今回は前回の記事にチラッと登場した絶望愛好家の話です。

 

世の中には異常性癖を抱えた人が少なからずいます。

異常性癖には色々と種類がありまして、ネクロフィリアだったりペドフィリアだったり、アベイショフィリアだったり、それはそれは説明することも憚られるような異常性癖からサディズムマゾヒズム、いわゆるSとMというようなよく耳にするものまで様々あります。

 

さて、今回のタイトル、絶望愛好家は僕の造語ですが、大別するならマゾヒズムに分類するものかと思います。そして、僕がそれだって話です。

絶望愛好家。読んで字の如くですが、とにかく絶望的なシチュエーションがめちゃくちゃ好きなんです。僕自身が根暗だからというのもあるのですが、基本的に人生に救いなど存在しないと考えているので、そういった絶望的なシチュエーションにリアリティを感じるのかもしれません。

アニメで言うと新世紀エヴァンゲリオン魔法少女まどか☆マギカ、ぼくらの、といったいわゆる鬱アニメは基本的には好きです。特に、作品に濃く関わっているキャラクターが死ぬシーンは脳汁がドバドバ出ます。エヴァで言うならトウジがダミープラグの手によって殺されるシーンやカヲル君を握りつぶすシーン。まどマギではマミさんがマミるシーンや、「みんな死ぬしかないじゃない!」って言いながら殺されるシーン。ぼくらのはコンスタントにメインキャラクターが死にますから、あえて言うなら敵を倒せば自動的に自分も死ぬシステムを認識する箇所でしょうか。あと、上には書いていませんが、進撃の巨人のリヴァイ班がやられるところも良かったです。

オリジナルの話で例えるなら、迫り来る強大な脅威に立ち向う過程で信頼していた仲間が次々と死んでいく。最後に残った主人公とヒロインであるが、ヒロインも無残に殺されてしまう。絶望の淵に立たされた主人公は生きる気力をなくし、呆気なく殺されてしまう。-BAD END- とかですかね。もしくは戦意をなくした主人公を見て敵は「興が削がれた。お前を殺すのはやめだ。」みたいな感じで主人公オンリー生存ルートとかの話も最高ですね。この手の話は仲間やヒロインの描写が細かければ細かいほど、主人公との関係性が深ければ深いほど最高です。そっちの方が絶望が増すので。

あとはアレですね、五分五分の戦力差の敵を仲間との熱い結束でようやく倒して「やった…倒した……倒したんだ!!!」って一騒ぎして「よし、早く帰ろう!アイツらが俺らの助けを待っている!」って帰還しようとした瞬間に、死んだと思われた敵が最後の力を振り絞ってメインポジションのキャラを殺す、みたいなのも好きです。上げて落とす手法、たまんねぇっすね。落差によって相対的に絶望度が増しますからね。

アニメやマンガの話に限らず、現実的な絶望も僕は好きです。40にも50にもなって6畳半のアパートに一人で住み、ファミレスのバイトで年下の上司に怒鳴られ、バイトの帰りに半額の弁当買って、テレビの音だけが響く部屋で弁当を食べる。机の上には弁当のカラが山積みで、そろそろ寝るかとテレビと電気を消すと、静まり返った部屋に隣の部屋から若いカップルのいちゃつく声が聞こえてくる。毎日毎日それの繰り返しで、自分が人間なのかロボットなのかもわからなくなっていく。最後に笑った日も最後に泣いた日も最後に怒った日もまるで思い出せない。また昨日と同じ今日が始まる。みたいなのです。最高です。もう絶望しかない。この、心が締め付けられていく感覚、喉の奥が詰まるような感覚、たまらないですよね。

 

さて、たっぷりと妄想を話しましたが、そろそろコイツやべぇな、みたいにみなさん思っているころではないでしょうか。

大丈夫です。自覚はあります。僕以外の人からこんな話は聞いたことないので、多分みんな絶望的なシチュエーションはあまり好きじゃないんだろうなとは薄々気づいています。

でも僕はこの絶望的なシチュエーションが大好きなんです。

 

そう、ここは仮説トイレなのです。壁に落書きをするかのように自分の考えを垂れ流しても許される場所。

落書きに共感はいらないのです。ただ、それを好んで見る物好きにも世の中にはいるということです。

 

その物好きを僕は大事にしていきたい。

 

そして、もしよければあなたも絶望愛好家になりましょう。絶望に直面してこそ人生の価値は輝き始めるのですから。

 

 

アインシュタインの人