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優しさについての探究

どうもどうも、ミルトンです。

前の更新から少し間が空いたねぇ。その間に資格勉強を進めて、最終課題の提出をしました。次は最後の試験が待っているー!きゃー!ドキドキ!

始める前は「半年間って長ぇ!」と思っていたけれど、いざ終わりを目の前にすると何とも言えない寂しさのようなものがある。勝手なものよ。新しいステージが始まるわけなので、また別の楽しさを感じていきたいなと思う。

 

何?真面目な話?

 

今回はテーマも結構難しい!が!いくぞ!

 

 

 

No.6_ 優しさについての探究

 

今回探究するのは「優しさ」という曖昧の王様みたいなもの。最初に書いておくと、「優しさ」といってもその意味というのは場合によっても人によっても異なるため、定義することは出来ない(と私は思っている)。

ここでは、私の思う優しさとは何か?ということについて探究していく。汎用性は低いが、こういう考えもあるのだと思いながら読んで欲しい。っていうか私も書きながらうーんうーんと考えるので、読みながら一緒に考えてほしい。そういう回。

 

まずは定義の確認。

【優しい】

1 姿・ようすなどが優美である。上品で美しい。

2 他人に対して思いやりがあり、情がこまやかである。

3 性質がすなおでしとやかである。穏和で、好ましい感じである。

4 悪い影響を与えない。刺激が少ない。

5 身がやせ細るような思いである。ひけめを感じる。恥ずかしい。

6 控え目に振る舞い、つつましやかである。

7 殊勝である。けなげである。りっぱである。

デジタル大辞泉より引用

 

意味が多いな……。そりゃどんどん曖昧になるわけですわ。

 

そもそも、「優しさ」について探究しようと思ったきっかけが二つあり、それぞれについて考えてみる。

①「優しい」と言われていた少女時代

小学生の間くらいはなぜか「優しいミルトンちゃん」で通っていた。

転校の多い学生生活だったが、転校するときに貰った色紙に『これからも優しいミルトンちゃんでいてね』『優しくしてくれてうれしかったよ』などと書かれていた。いま手元にないので証明出来ないが、感覚としては半分くらいそんな内容だった気がする。残り半分は『学校が変わってもがんばってね』『このクラスのこと忘れないでね』みたいな感じ。多分。きっと美化された記憶だがすまんね。

 

正直「優しい」と言われる度に「優しくないよ」と思っていた。小さい頃は何も考えていなかったけれど、物心がついてくると「別に優しくないけどなあ」「優しいと言われるためにやってないのにね」みたいな感想を抱くようになってきた。

「優しい」と言われすぎてしまった結果としてだんだん、「優しい」と言われたくない!という気持ちになってしまった。悪の転換。かといって意地悪をしたいわけではないので、以前よりやや感じが悪くなり、やや主張が強くなったという感じである。だったら優しいままで通しておいた方が良かったじゃんと今なら思うがね。

 

この頃に「優しい」と言われていた要因として考えられること

  1. 好き嫌いなく誰とでも仲良くしていた
  2. 人前での主張が弱かった
  3. 周りと比べて声が小さかった
  4. 大きな悩みや困りごとがなく精神的に落ち着いていた
  5. 身体的に小柄だった

 

こんなもんかねぇ。特に1と2が強いと思うけれど、4が隠れた最重要項目な気がしてきた。意地悪な言動が目立つ子や不安定な感じの子は、何かしら悩みや困りごとを抱えているような子が多かったので(私の観察による勝手な判断だけど)。

 

◎ここまでの結論:精神的な余裕があると、周りから優しいと言われるような対応ができる(ことがある)

 

 

②職場で「優しいね」と言われた違和感

時を現在に戻して、これは最近の話。職場で上司から「優しいね」と言われた。別の社員と私が話していた時、私が自分の意見を通さずに折れたのを見ての感想だったが、私としては「これ以上言うのは面倒くさいな……他の人に頼めば出来ることだしいっか……」という消極的な対応だった。なので、「優しいわけじゃないし、優しいって言われるの嫌だな」という感覚になった。

 

この時は「優しいと言われるのが嫌なのはなぜだろう?」と考えて、すぐに答えは出なかったのだが、上記①に書いたように悪の転換を遂げてしまったからだと今分かった。

 

それとは別に、職場でいう「優しい」と、それ以外でいう「優しい」は全く別物だなと感じた。私的に職場での優しさとは、“付加価値”的なものではなく“やるべき当たり前のことをできていること”であるなと感じている。例えば、教えるべき人にきちんと教える、叱るべき人に適切に叱る、出来ないことはなあなあにせず丁重にお断りする、責任を取るべきところは取る……など。優しいっていうか仕事ができるっていうのかもしれん。

例に挙げたことって、なかなか適切にできている人は少ない。私を含め。なので、職場でその人の役割としてそれらをきちんとやり切っている人を見ると、優しいな〜と思う。優しいなというか、器がでかいなというのが適切かも。

 

職場以外では、役割が明確に決まっていることが少ないので、より流動的というか曖昧というか、場面によって優しさが変わるというか、そんな感覚かな。

私が仕事ができる人が性別問わず好きなのは、わかりやすく優しさとか器の大きさが見えるからなのかも。自分に注意しておきたいのは、仕事はできてもそれ以外は違う人格になる人間が多いから気をつけようねということ。それはそう!!!

 

◎ここまでの結論:職場での優しさと、それ以外での優しさは違うと考えている。職場では、優しさ≒仕事ができることという認識。

 

 

もっと色々と探究できそうだけれど、あんまり書くと長くなりすぎるのでそろそろ締めに入る。

最近のスローガン的なものとして、【強くてやさしくてかわいい】を掲げていて、自分がそうなりたいのもそうだけど、そういうものを好きになっているなみたいな自覚なんだけど。

 

【強くてやさしくてかわいい】になるには、強くて=自分の中で努力して能力を上げてやさしくて=精神的に余裕を持ってかわいい=楽しむ(と自然とキラキラするので)  を心がけたらよいのだと分かった。

 

 

以上です。

大人になって精神的に余裕持つの、ムズ〜〜〜〜〜〜!?!!?!と思うけれど、気にするだけでも少しずつ改善するだろと思ってやっていく。

そして自分の「優しさ」に対して、かなり天邪鬼な態度を取ってきたのだと分かりびっくりした。そんなことある??

周りから「優しい」と言われようが「優しくない」と言われようが、自分の本質的な優しさにはあまり関係がない気がするので、その時の自分を信じてやろうと思う。

 

みなさまの探究結果も教えてください。

また次回〜。