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シンプルだからこそ

みなさん、好きなパスタはなんですか?

いきなり好きなパスタを聞かれてなんなんだこいつは?イタリアの回し者か?と思われたかもしれません。好きなパスタはなんですか、なんて話題は初対面の男女が話す話題ランキング82位ぐらいのものですからね。

 

でもよく考えてみてください。パスタって実はめちゃくちゃ種類があるんですよ。

まず麺の形状。大きく分けてもロングパスタとショートパスタの2つがあります。

さらにロングパスタにも、よく目にするスパゲッティーニや、やや幅広麺のタリアテッレ、今やグミの名称にも使われているフェットチーネ、ラザニアに使われるラザーニェ、などなど。さらにはスパゲッティーニでも太さや材料によって名称が変わったりします。

ショートパスタではお馴染みのマッケローニ(マカロニ)やペン先のような形をしたペンネ、リボンの形をしたファルファッレ(ファルファーレ)、貝殻のような形をしたコンキッリェ(コンキリエ)、ぐるぐる捻ったような形のフジッリ、タイヤのような形のルオーテ(ホイール)、ジャガイモを使ったものがよく知られているニョッキ、などこれも様々あります。

このように麺の形状だけでめちゃくちゃ種類があります。

さらにこれに加えるソースも複数存在し、大別してオイル系、ミート系、トマト系、クリーム系、バジル系などがあります。日本にパスタ文化が持ち込まれて、独自に発展したものとして、ナポリタンや明太スパ、うにクリーム、バター醤油などもありますね。

もうこの時点で組み合わせは無限大。好きなパスタとソースを選んで君だけのパスタを作り出そう!状態です。まあ細麺のスパゲッティーニはオイル系、平打ちのフェットチーネはクリーム系やミート系が合う、などそれぞれのパスタとソースの相性などはありますが、特にそれがお決まりなんだ!と固執する必要はないと思います。実質無限大です。

 

この数あるパスタの中で好きなパスタは何か、と問われるとみなさんは何を選びますか?

こってりとしたカルボナーラ?がっつり食べたいボロネーゼ?ちょっとオシャレにジェノベーゼ?変化球のラザニア?童心に返ってナポリタン?日本人の味、明太スパ?

たくさんあって選び切れませんね。ちなみに僕は断然、ペペロンチーノです。

どれぐらいペペロンチーノが好きかと言うと、理想のペペロンチーノを追求して大学生4年間のうちに作ったパスタはほぼペペロンチーノオンリーだってぐらいペペロンチーノが好きです。2番目に好きなのはカルボナーラです。

 

というわけで、前置きが長くなりましたが、今日はペペロンチーノについて話します。お付き合いください。

ペペロンチーノの正式名称はアーリオ・オリオ・ペペロンチーノ。イタリア語でアーリオはニンニク、オリオは油(オリーブオイル)、ペペロンチーノは唐辛子を指します。日本では比較的人気のあるペペロンチーノですが、パスタの国イタリアでは貧乏人のパスタ(絶望のパスタ)とも呼ばれています。そう呼ばれるのは諸説ありますが、メジャーなのはニンニクとオリーブオイルと唐辛子さえあれば作れるからという理由ですね。

ちなみに関係ないですが、カルボナーラは炭焼きのパスタと言われ、炭焼き職人が考案したとかブラックペッパーが炭の粉に似てるからとか諸説あります。僕はカルボナーラも好きですが、今回はペペロンチーノ回なのでカルボナーラの美味しい作り方に興味がある人は適当に調べてください。

 

さて、僕の大好きなペペロンチーノですが、シンプルゆえに奥が深いです。

まずは基本の作り方を紹介しましょう。

1.パスタは、たっぷりの湯に多めの塩を加えて茹でる。
2.フライパンに、切るか潰したニンニク、種を除いたトウガラシ、オリーブオイルを入れ、とろ火でじっくり熱し、風味と辛みをオイルに移したら、パスタの茹で汁を適量加え、かき混ぜてなじませる。
3.パスタがアルデンテに茹で上がったら、フライパンのオイルソースと絡める。皿に盛り、パセリとチーズをふる。(Wikipediaより)

なんだこれは。めちゃくちゃ簡単ですね。驚きの3ステップ。そりゃ貧乏人のパスタと言われても仕方ありません。

 

ですがこれはあくまでも基本の作り方です。そう、ペペロンチーノ好きの僕に言わせれば、これだと幅広いペペロンチーノのニーズに応えることができていません。ペペロンチーノにニーズもヘッタクレもないだろって?うるさい、死ね。

例えば、ニンニクの香りがビシビシ効いたペペロンチーノがいいのか、ニンニクの香りがマイルドなペペロンチーノがいいのか。唐辛子の辛さは辛めがいいのか、辛くない方がいいのか。オリーブオイルの香りの強さや乳化の度合い、イタリアンパセリの有無。などなど……。

これら数多のニーズに応えるペペロンチーノを作ることがペペロンチーナーとしての宿命です。ちなみにWikipediaに載ってるチーズを振りかけるパターンは初めて知りました。

 

ペペロンチーノって実際に作ってみると意外と難しいんですよね。どうしてもパスタがボソついてしまうor油っこくなってしまう。作れるのは作れるが、あまり美味しくない、求めているペペロンチーノと違う。深みがなく表面的な味になる。などなど。

それらの悩み、ペペロンチーナーの僕が解決します。任せてください。

 

それではいきましょう。

まず、パスタの茹で方です。

茹で方なんてねーだろと思ったあなた。まだまだクソザコですね。受精卵からやり直してください、どうぞ。

まず知っておきたいのはパスタを茹でる際の塩の分量です。塩を入れずに茹でる方法もありますがそうするとパスタ自体に味がつきません。その代わり小麦粉の香りがやや強くなり、麺が伸びにくくなるというメリットもあります。塩を入れる場合は塩分濃度が1%〜1.5%になるようにしてください。1Lのお湯に対して10gが目安です。この10g、実際に量ると、引くぐらいの分量に見えます。が、臆せずぶち込んでください。理想はパスタ100gあたり2Lのお湯が理想ですが別に1.5Lもあれば十分です。そこはみなさんの持っている鍋のサイズと相談してください。

そしてペペロンチーノを作るときはパスタを記載の時間よりも2〜4分早く上げてください。2〜4分と書いたのは茹で時間が6分のパスタや10分のパスタがあるからです。記載時間の6〜8割を目安に上げましょう。

 

次にニンニクです。

ニンニクは1かけから2かけがベストでしょうか。次の日に予定がない人、ニンニクを効かせねぇと気がすまねぇ!って人は5かけほど入れても構いません。お好きにしてください。

ニンニクは切り方によって香りの強さが段違いに変わります。ニンニクの香りをビシビシに効かせたい方はみじん切りにしましょう。引くぐらいニンニクの香りがします。包丁の腹で潰してからみじん切りするとより香りが強くなります。まあ普通でいいやって人は普通にスライスしてください。薄くスライスするとフライドガーリックのようにパリパリになるので、気持ち厚めにスライスしてください。ペペロンチーノよりもニンニクそのものが好きだって人は包丁の腹で潰すだけ、の手法をオススメします。ニンニクがホクホクとした仕上がりになって、付け合わせのように楽しむこともできます。ニンニクをたくさん使ってみじん切りのニンニクと潰すだけのニンニクを併用するのもいいですね。ご自由にどうぞ。

 

次は唐辛子です。

と言っても唐辛子はさほど話すことはありません。

唐辛子は種が特に辛いと言われています。が、ペペロンチーノに種を入れても辛さが増すばかりか変な雑味が増えます。というわけで唐辛子の種は必ず抜きましょう。辛くしたい人は使う本数を増やしてください。大体1人前あたり1〜2本が相場です。ヘタを取って、中身の種を捨てた後にキッチンバサミなんかで輪切りにして使いましょう。切らずにさやのまま入れてもいいですが、ペペロンチーノにおいては唐辛子も重要な可食部位ですので、あまりオススメはしません。あと、唐辛子を触った後は必ず手を洗いましょう。そのまま目をこすったりしようもんなら死にます。死にました。

 

最後にオリーブオイルです。

オリーブオイルにはエクストラバージンオリーブオイルとピュアオリーブオイルの2種類が国内で売られています。厳密に定義するとめんどくさいことになるので、エクストラバージンはオリーブの香りが強く、ピュアはそうでもない、ぐらいに思っておいてください。

ペペロンチーノでの理想はどちらも使うのが理想ですが、片方しか持ってねーよって人はどちらか片方で構いません。ただ、サラダ油等で代用するのはやめましょう。

 

では、作り方です。

まず、沸騰させたお湯にパスタを入れます。7分で茹で上がるパスタは同時にフライパンに火をつけてください。10分かかるパスタは約3分後にフライパンに火をつけてください。

パスタはお湯をポコポコさせながら茹でるのがいいので鍋の火は中強火でいきましょう。対してフライパンの方は極弱火にします。え?これ火ついてるよな?ぐらい弱火でかまいません。

フライパンに火をつけたらすぐにピュアオリーブオイルを入れます。エクストラバージンしかない人はエクストラバージンを使ってください。大さじ1杯〜1.5杯ほどです。やや多めにいきましょう。

オリーブオイルを入れたらニンニクを入れます。オイルが温まる前から入れましょう。温まってから入れるとフライドガーリックになりかねないので。

そしたらそのまましばらく放置します。次第にオリーブオイルが温まってニンニクから気泡が出てきます。そしたら唐辛子を入れてください。フライパンを傾けながら揚げるようにして火を通していきましょう。そうすることでオリーブオイルにニンニクの香りと唐辛子の辛さが移ってくれます。

そのまま加熱していると段々と揚げ物をしているかのように気泡が増えてくるのでそのタイミングでパスタの茹で汁をおたま一杯弱ほど、フライパンに加えましょう。

ここで乳化に入ります。フライパンを回しながら茹で汁とオリーブオイルを馴染ませていきましょう。

そうこうしているうちにパスタが茹で上がり規定時間2〜4分前になるので、そこでパスタをフライパンに移します。必ず、ザルなどでお湯を切らずに、鍋から直接フライパンに移してください。

お湯に塩を加えてない場合はこのタイミングでフライパンに塩を入れます。味を見ながら入れましょう。お湯に塩を加えている場合は何もしなくて結構です。

パスタをフライパンに入れたら火を極弱火から弱中火にします。茹で汁がやや蒸発するぐらいの火加減にしてください。

フライパンを煽って、オイルとパスタを絡めつつ、適宜、茹で汁を加えましょう。

フライパンに茹で汁を加える理由は2つあります。1つ目は乳化をさせるためです。乳化ってなんやねんって人はオリーブオイルとお湯を分離させないように混ぜ切ること、ぐらいに思ってください。乳化をさせるためにはフライパンは常に動かし続けるのが大事です。ガシガシ動かしましょう。2つ目はフライパンの上でパスタを完全に茹で上げるためです。茹で汁が蒸発してチリチリと炒めているような音が鳴るとすぐに茹で汁を加えてください。お湯に塩を加えている場合は、この茹で汁の量で塩加減を調節します。味見をしながら作りましょう。

フライパンにパスタを移して4分もすればパスタがいい感じに茹で上がり、同時にいい感じに乳化できているはずです。フライパンを傾け、パスタを寄せた時に白く濁った液が溜まっていれば乳化成功です。オイルと茹で汁が分離している場合はもう少しフライパンを回して、乳化させましょう。

乳化が確認されたらラストスパートです。ここにエクストラバージンオリーブオイルをサッと回しかけます。小さじ一杯ほどです。回しかけたらもう一度だけ茹で汁を加えます。そして乳化です。フライパンをガシガシ回してガシガシ煽ってください。もう一度、乳化が確認されたらオッケーです。お皿に盛り付けましょう。この最後の行程は乳化が成功しようとしまいと必ず1分以内に終えてください。エクストラバージンオリーブオイルに火が通りすぎるとオリーブの香りが飛んでしまうので。ピュアオリーブオイルしか持ってない人はこの行程は省略してかまいません。

 

これで最高のペペロンチーノが出来上がりです。目を輝かせながら、貪り食べましょう。なんせ貧乏人のパスタなので、振る舞いも貧乏人らしく。そうすればなんかちょっと楽しくなります。多分。

もし、サイゼリヤで食べるようなペペロンチーノが食べたい人は茹で汁を加える時に白ワインを少し加えると、フルーティな香りがついてそれっぽくなります。胡椒も少し入れるといいでしょう。

コンビニで売ってるようなペペロンチーノが食べたい人はニンニクと一緒にベーコンを炒めてください。スモーキーな香りがついてそれっぽくなります。粗挽きブラックペッパーとイタリアンパセリもサッと振りましょう。より、それっぽくなります。

 

さて、5000字に渡って僕のパスタ愛、もとい、ペペロンチーノ愛を語りましたがいかがだったでしょうか。

全く参考にはしていませんがこの方も2012年にペペロンチーノに関する記事を上げていますね(ペペロンチーノを作ろう : foto+ing)。この方は10年間ペペロンチーノを食べ歩き、ご自身の理想のペペロンチーノを探し求めています。俺よりもペペロンチーノ歴ははるかに上ですし、内容もより専門的でくわしいです。

 

ペペロンチーノはオイル系パスタの基本・土台になります。これに例えば唐辛子を抜いて海鮮を加えてみたりしても美味しいと思います。ぜひ自己流にアレンジをしてあなただけの理想のペペロンチーノを追い求めていきましょう。

そして、あなたもよいペペロンチーノライフを!

 

 

アインシュタインの人

優しく握れ、親

100の質問

9. 好きなおにぎりの具は?

 

A. 魚肉

 

元も子もないことを言ってしまうのだが、そもそも床下はこの「100の質問にひとつずつ答えていく」というコンセプトに適性がない。

 

 

というのも、これまでの記事を読んでくれた人なら察するかもしれないが、床下は非常にめんどくさい性格なのだ。

床下にとって完璧な存在というのはジブリ真木よう子ぐらいである故に、これが好き!となって何かに熱中したり傾倒することは非常に稀であるし(大抵完璧ではないので)、逆に嫌いと思ったものも「いやどこか好きになれるところがあるんじゃないか」と特長を追求する。

物事は多くの長所と同じくらいの短所が折り重なって構成されているものがほとんどなのだから、総合的に評価すれば「中の中or中の上」という結論に床下は至ってしまうのだ。

 

 

今回の質問に関してもそうだ。好きなおにぎりの具など、作り手やその形状、そして食べるときの環境によって変わってくる。

だからこそ、今回の回答もおよそ普通の人がしないような良く分からないものとなっている。だが床下の中では完全なるロジックが存在していて、魚肉と回答することに何のためらいもないのだ。

 

 

ということで、完全に自己満足で魚肉と回答した経緯について述べていこうと思う。

 

先にも述べたが、おにぎりという存在も多くのファクターの掛け合わせによって存在している。そのファクターをおおよそに大別してみると大きさ、形状、温度、海苔の乾き具合、作り手などがある。これらファクターの中でも、海苔の乾き具合と作り手はかなり重要である。というのも、これら二つはおにぎりの味にダイレクトに関わってくるものだからだ。よって、この二つのファクターに床下は焦点を当てていくことにした。その結果として、三種類のおにぎりがあることに気付いた。一つ一つ解説していく。

 

 

①親の作るおにぎり(海苔:ウェット、作り手:母or父)※長いので「親ぎり」と略す

 

多くの人間が初めて口にするおにぎりは恐らくこの親ぎりだと思う。このおにぎりに対するファーストインプレッションが各々のその後の「おにぎり論」の基礎になることは間違いない。

 

床下はというと、親ぎりであれば具は間違いなく「鮭」を選択する。

何故かというと

 

米の量が尋常ではないからだ。

 

男子高校生を経たものであれば誰もが一度は疑問に思うだろうが、親ぎりというのは何故あんなにもでかいのか。

子は親の背中を見て育つというが、実は親ぎりの背中を見て育っているのではないかとさえ思えてくる。

 

それほどまでに親ぎりはでかい。

 

では何故でかいことが具を鮭にすることに繋がるかというと、それは我が家の鮭が辛口だからなのだ。スーパーで売っている焼き鮭には塩加減にレベルがあり、床下家では昔から辛口をチョイスしている。

つまり、その塩辛さによって親ぎりを親ぎりのみで食べつくすことができるのだ。おかずを買えばいいじゃないかという意見は勿論あると思うのだが、床下はそれを良しとしない。

おにぎりはおにぎりで完成されている食べ物であってほしいという思いがあり、おかずを買うことは中に込められた具を冒涜することと同義だからだ。

別に炊きたての白米で作られた親ぎりであれば、米の旨味が強いため具に関わらず美味しく完食できるのだが、親ぎりを食べるタイミングというのは大抵朝に作ってもらったものを昼に食うのが普通だろう。そんな冷め切った白米を美味しく食べるには、具の重要性は計り知れない。

 

つまりここで鮭を選択することによって「魚肉」枠に1点が入ることとなる。次に行こう。

 

 

 

②地元近くのおにぎり屋のおにぎり(海苔:ウェット、作り手:従業員)※ジモぎりと略す

 

これは口にしたことがある者とない者がいるかもしれない。

田舎町にときたま存在するおにぎり屋が作るジモぎりは、何故かめちゃくちゃ美味い。親ぎりのように親の仇かのごとく米を圧縮したりはせず、

口に入れることで解けていく絶妙な握り具合

絶妙な大きさ

そして具のバラエティ

定年退職したらこのおにぎり屋で働いてくれと両親に言いたくなるほどにジモぎりは格別である。

 

中でも「チーズおかか」は最高である。

高校時代の床下は初めてこのチーズおかかを食べたとき、あまりの美味さに衝撃を受けた。例えるならそう、Base Ball Bearのレモンスカッシュ感覚という曲のサビに近い感覚があった。

 

I Feel, レモンスカッシュ感覚 僕の中で稲妻

一生求む感覚 そう例えばラブ 例えばポップ 第六感でときめいて

レモンスカッシュ感覚 僕の中でフラッシュバック

一生消えぬ感覚 振り向いた君の輝き

 

この曲は衝撃的に恋に落ちた人を歌っているが、対象が君かおにぎりかの違いだけで、思いは同等のものだ。

 

とにかくチーズおかかは間違いなく床下の「おにぎり論」に大きな改革をもたらした具と言って良い。

 

しかし残念なことに、この具が総合評価として一位になることはないのだ。

というのも、あまりの美味さに床下は親に頼み込んで、親ぎりの具をチーズおかかにしてもらったことがあるのだが、どうにも何かが違うのだ。

つまり、あくまでもジモぎりとしての「チーズおかか」が最高なのであって、具自体が最高というわけではない。

 

具自体がおにぎりという存在を超越して支配することはままならない(今回の格言ですねこれは)ということを床下はこの時学んだのだ。

 

とはいえチーズおかかの主役は鰹節であり、鰹節は元々魚肉なのでここでも魚肉枠に1票が投じられることになる。次に行く。

 

 

 

③コンビニのおにぎり(海苔:実際はハイブリッドだが今回はドライについて話す、作り手:企業)※ビニぎりと略す

 

読者の多くが現在最も口にしているおにぎりではないかと思う。

中には親ぎりよりもビニぎりを食べた回数の方が多くなってしまい、郷愁に駆られている者もいるのではなかろうか。

だがそんな郷愁をものともせず、ビニぎりはいつ食べても安定して美味い。ビニぎりは間違いなくおにぎりという文化を一段上に引き上げた存在と言っていいだろう。

 

だが床下は、このビニぎりの一番好きな具を「鮭」か「ツナマヨ」か「まぐろわさび」かで決めきれずにいるのだ。

それは、ビニぎりがおにぎりの文化を広げたからこそ生まれた深刻な問題に起因している。

 

シチュエーションだ。

 

 

我々が口にするだけでなく、映像作品にも多く出演するようになったビニぎりは、シチュエーションに適した具というものが存在するようになったと床下は考えているのだ。

 

バイト終わり、家に帰るまで空腹を我慢することができずに食べるなら、ちょっと子供っぽいツナマヨを食べたくなる。

 

 

泥まみれのニッカポッカを着てコンビニの駐車場に停めた軽トラの中でDate FMを流しながら食べるなら、昔ながらの鮭を食べたくなる。

 

 

寿司を食べたいが金は無いとき、まぐろわさびは完全な存在だ(情けなさで涙するのか、わさびのせいなのか)。

 

ビニぎりにとってシチュエーションは味を左右する大きなファクターと言ってもよいと思っている。

 

とはいえ、どれも魚肉であることに変わりはないため、ここでも魚肉枠に一票が入るわけだ。

 

こうして、床下の一番好きな具は「魚肉」であるという結論に至った。これ以上細分化することはできないのでご了承願いたい。

 

 

ところで、床下には唯一生理的に食べられないおにぎりが存在する。

それは、人ん家のババアが作ったおにぎり(ババぎり)である。

何故か昔から、これだけは食べることができない。

ババアはババアでもおにぎり屋のババアは平気だし

すし屋も全く問題ないし

何なら人ん家のジジイが作ったおにぎり(ジジぎり)は食える

千と千尋の神隠しでハクが作ったおにぎり(あれはおむすびだろうか)もめちゃくちゃ美味そうである

だが何故かババぎりだけは受け付けない。

ババアは手汗がすごいという床下の偏見によるところも大きいといえば大きいが、これについてはもう少し分析をしていく必要があるため、ババぎりを食べられない同志は是非情報を送ってほしい。一緒にババぎりを克服していこう。

 

 

追伸:モリオカさんへ

好きなおにぎりの具について「ちなみにわたしは梅干しです。ちょっと余裕があるときはいくらが好きです。」というご意見をいただいておりましたが、全く文章に反映させることができませんでした。この場を借りてお詫び申し上げます。そもそも余裕とは何なのか気になるところです。

なぜYUIの歌がこんなにも好きなのか〈前編〉

今回は「なぜYUIの歌がこんなにも好きなのか」ということについて書いていきたいと思います。

本当はひとつの記事で収める予定だったのですが、あまりにも長いので前後編に分けることにしました。まずは前編にお付き合いください。

YUIとはなんぞや?というかたはこちら。↓

YUI (歌手) - Wikipedia

 

この間、とあるメーンメンバーの好きなアーティストの歌をおすすめしてもらった。そしてその勢いのまま、3日間くらいかけてそのアーティストの歌のほぼ全曲を聴き倒すという試みをしていました。

 

その時に音楽のアプリに登録したため、他のアーティストの曲も色々聴いていて。
ふと「私はYUIの歌めっちゃ好きだよな」と思って、でも別に新曲が出るたびに追っていたわけでもないし、声やビジュアルが特別に好きだったわけでもなく。
なんでこんなに好きなんだろうかということをこの際に整理してみようと思い立ち、この記事を書いています。

 

YUIの歌を初めて聴いたのは中学生の頃だったと思う。
当時所属していた吹奏楽部で「CHE.R.RY」を演奏することになった頃にYUIの存在を認識し始めた。

歌番組で「CHE.R.RY」を歌うYUIを見ながら、『恋しちゃったんだ~♪』みたいな甘い歌詞には収まり切らない何かを薄々感じていた。と思う。ハッキリと覚えてはいないけど、何かしらのシンパシーを感じた気がした。

 

「CHE.R.RY」以外のYUIの曲を聴いてみたいと思い、なんとなくの気持ちでアルバムを借りてみた。それが『CAN'T BUY MY LOVE』。

この1枚は私の人生に一番影響を与えたアルバムだと言ってもいいかもしれない。学生だった私は、大人に対しての嫌悪感とか日々のやるせない気持ちとかをYUIの歌で消化していたのだと思う。

 

とか言いながら、改めてYUIWikipediaを読んでみると知らないことだらけでビビる。全ての曲を聴いてきたわけではなくて、ひたすら2枚のアルバム(『CAN'T BUY MY LOVE』と『GREEN GARDEN POP』)を聴き倒してきただけなのだけど、それくらい惹き付けられる何かがあった。そして今もずっとある。

 

ということで、特に好きな曲を挙げていき、その何かを探ってみようと思う。

 

①How crazy

How crazy

How crazy

  • YUI
  • J-Pop
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

 

『CAN'T BUY MY LOVE』の1曲目。いきなり衝撃を受けた曲。
学生の頃の私は、どうも大人に対して信頼し切れないような気持ちが強かった。私のことを思って言ってくれたであろう言葉も、してくれたであろう行動も、当時の私にとっては嫌悪感を抱くだけのものだった。
いまとなってはバカだったなぁと思うのだけど、当時の私はそれが精一杯だったんだよなと思う。

YUIの歌詞にそんな気持ちを代弁してもらっていた。

(前略)

尊敬できない大人のアドバイス
アタシはあなたみたいにはなりたくないと思った

(中略)

How Crazy わかったようにアタシのこと話すのはやめてよ
How Crazy 深い海に沈んでゆく船から逃げてきたの

夢にlove love loveいつも

純情じゃいられない How Crazy

一言で言うと、鬱憤をぶつけまくった歌。

 

②Rolling star

Rolling star

Rolling star

  • YUI
  • J-Pop
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

 

youtu.be

『CAN'T BUY MY LOVE』2曲目。
2曲続けてドーン!バーン!みたいな、押して押して押しまくる!攻めて攻めて攻めまくる!!!という流れが最高。

もう我慢ばっかしてらんないよ
言いたいことは言わなくちゃ

 

この一言で始まる出だしよ。良い…。
日常はそんなに上手くいかないけど、でもそれでも生きていかなきゃでしょ、進んでいかなきゃでしょ、そしてどうせ進むなら攻めなきゃ損でしょという曲。
疾走感のあるメロディーが好き。

 

③Please Stay With Me

Please Stay With Me

Please Stay With Me

  • YUI
  • J-Pop
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

 

youtu.be

GREEN GARDEN POP』収録。
2曲目までのような強気に攻める曲が私の思うYUIの真骨頂だけど、恋愛に関する曲もかなりグッとくるものが多いです。

会いたいと
言えば
また苦しめてしまう?
涙あふれるのに・・・

 

YUIの恋愛についての歌詞の何が良いかというと、相手の気持ちに寄り添おうとしている点です。
会いたいと言いたい、けど、相手が苦しむから言えない、という……このジレンマ!!!!!!!!

 

会いたいよー!って素直にぶつけるんじゃなくて、自分の感情と相手の感情を天秤にかけてしまう不器用さにグッッッッと来ます。

今でこそ、会いたいならば例え100%会えない状況でも「会いたいよ」と気持ちを伝えることが大切だなぁと思うようになってきましたが、それはさておき、根本的にはこういう気持ちがあるよねと思う。

 

また「会いたいのにあなたは気付いてくれない」とか「会いたくて泣いているのは私だけ」みたいな、相手に矢印を向けた歌詞ではない、というのがかなり好きなポイントなのだと思う。

会いたい気持ちを自分で消化しようとして、それを歌詞にしている、あくまで自分に矢印を向けて書いている歌詞。

 

YUIの恋愛の歌には「あなた」が出てくることはあるが、「あなた」に向けて歌っている歌は1曲も無いんじゃないかと勝手に思っている。

 全ての曲に共通することだけど、YUIはあくまで自分のために、自分の気持ちを素直に歌詞にしているように見える。
自分の感情に対して媚を売ったり言葉を偽ったりしない愚直さが、惹かれるポイントなのかもしれない。

 

というわけで、少しずつYUIに惹かれる理由が分かってきたところで前編を終わります。
この勢いのまま続けたいんですけど、このままいくと5,000字近くになってしまい地獄なので…。

 

後編は、好きな曲を残り3曲(予定)について書いたのちに、YUIの活動休止と現在の活動について、そして結局YUIの何が好きなのか、私なりに思うことを書いてみたいと思います。

好きなことについて書くとひたすら書けるけど、動悸息切れ目眩がする気持ちになる…。好きは楽しくてしんどい。

 

それではおやすみなさい。また次回。

押し通おおおおおおおおおりたい!!!!

100の質問

8. 苦手な動物は?

 

A. 鹿

 

床下は曇りなき眼(まなこ)がめちゃくちゃ苦手である。

 

曇りなき眼に見つめられた瞬間

蛇に睨まれた蛙の如く身動きが取れなくなり

ファイナルファンタジーで敵とエンカウントした際に起こる画面エフェクトの如く視界は歪み

脳内ではFF10のノーマルバトル(https://youtu.be/zNoem1VEtyc)が再生される。

 

その緊迫感はアムロとシャアのフェンシング対決にも引けを取らず、思わず

ララァーーーーーーーーーー!!!!!!!!」

と叫びたくなってしまうし

サウロンの目に見つめられたフロド・バギンズのように心臓が締め付けられるかのような錯覚に陥る。

 

今風に言うと曇りなき眼は「無理...」である。

 

 

 

曇りなき眼とは、文字通り瞳に一点の曇りもない状態を指す。

邪 or/and 複雑な感情を抱かず

ただ一つの思いを瞳に転写し

まっすぐとこちらを見ている。

そういうものを曇りなき眼と呼ぶ。

つまりは、表情がどんなものであろうと曇りなき眼を相手に向けることはできる。その顔が笑顔だろうが、精悍だろうが、怒りで歪んでいようが、瞳に陰りがなければそれは曇りなき眼である。

 

 

 

床下が人生で初めて曇りなき眼と対峙したのは、4歳の時だ。今でも良く覚えている。両親と共に映画館へ行った時のことだった。入った劇場ではジブリの「もののけ姫」が上映されていた(もののけ姫 - Wikipedia)。

今でこそ

ジブリについて語らせれば夜を3回またいでも終わる気配がない」

と友人に言わしめた床下ではあるが、ベイビーでプリティな頃の床下はジブリのいろはなど知る由もなかった。

そんな無垢な状態の床下は、「もののけ姫」を観るや否や、恐怖で涙が止まらなくなってしまった。

 

何故か。

 

この映画、曇りなき眼がめちゃくちゃ出てくるのである。

知っている人しか分からない話だが、シシ神様に始まり、ヤックル、オッコトヌシ、モロ、猩々たち、おまけに主人公のサンとアシタカ、どいつもこいつも曇ってねえのだ。純粋な思い、純粋な怒り、純粋な虚無、純粋な笑み、純粋な献身、どれもこれも一点の曇りもない。というか曇りなき眼という単語も、もののけ姫の劇中で使われているものだ。

 

ベイビー床下はそれら全てを脳内で言語化したわけではなく、生物としての本能の部分でダイレクトに感じ取っていたのだ。泣き叫ぶ床下は父に抱えられてあえなく劇場の外へ退場となってしまった。しばらくは恐怖で観直すこともかなわず、観ることができるようになったのは中学に入ってからだった。

 

 

 

しかし、もののけ姫に慣れた今でも、曇りなき眼というのはどうにも苦手で適切な対応策をとることができないでいる。

例えば、

赤子に見つめられたとき

純粋な夢追い人と会話をしたとき

まるで顔に「ヤンデレ」とでも書いてあるかのように上下左右四方八方全てが「ヤンデレ」という概念に包まれた異性に告白されたとき

床下は相手を直視することができなかった。

 

それどころか、膝はボルテックスミキサー(有機実験で使う)のようにガクガク震え、顔は引きつった半笑い状態になり、中二病だった頃に回帰するように「やれやれだぜ...」などと呟いてしまう。

ニート漫談のガリガリガリクソンのように「お~こわっ!」などとおちゃらけるメンタルを床下は持ち合わせていない。

赤子ならば自然と目をそらしてしまうし、夢追い人は目を合わせずに相槌を打つだけの機械と化してしまうし、ヤンデレには気圧されて思わずOKしてしまい後々痛い目にあいそうになった(そのうち書きます)。

 

 

 

鹿は、上述した奴らと同等、いやそれ以上の曇りなき眼を有している。

東大寺に行った時

宮島に行った時

北海道に行った時

峠を攻めた時

そこに鹿はいて、じっと床下を見つめていた。

あの床下の全てを見透かしているような瞳は何にも代え難い恐怖だ。床下は「何見てんだよぉ!」と声を荒げながら早足でその場を通り過ぎることしかできなかった。

周知の事実だが、そんな行動は曇りなき眼に打ち克ったことにはならない。奴らに対抗するには、奴ら以上の「曇りなき眼」を身につけるほか無いのだ。

 

 

だが、残念ながら床下は人間として生まれてしまった。

 

生物の中で、人間は瞳を汚していく唯一の生き物だ。自分の生きる社会が広がるにつれ、人目を気にし、周りに合わせ、心にもない表情をする頻度が増えていく。

ご多分に漏れず床下もそのうちの一人であり、今更曇りなき眼の向け方など知るはずもない。

 

或いはもし、「もののけ姫」を映画館で観たあの時、シシ神様やオッコトヌシにも対抗しうる精神を床下が持ち合わせていたのなら、今頃はアシタカのような人間になれていたのかもしれない...。

非常に残念でならない。今の床下などジコ坊程度の人間力しか持ち合わせていない。悲しみにくれている現在の床下にピッタリなBase Ball Bearの曲があったから貼っておく。辛い。

 

その眼の中で僕はどんな表情していたろう? わからない
花のようにさよなら 涙しか溢れない 嗚呼
その眼の中で僕はきっと生きていたから 堪らない
鳥のようにさよなら 笑顔なんて忘れたよ 忘れたよ 忘れたよ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

薄々感づいているかもしれないが、今回の記事で伝えたかったのは

 

 

 

 

 

 

もののけ姫を観ろ、話はそれからだ

 

ということだけだ。それ以上でも以下でもない。終わる。

お前らの心が汚い

100の質問
7.好きな動物は?

 

A.カイコガ

 

今日は床下の普段やっていることについて少し話そうと思う。

 

床下は現在、とある山奥の大学院で研究活動をしている。高校で化学を学んだことのある人なら聞いたことはあるかもしれないが、「有機化合物」の研究をしている。

有機化合物というのは、端的に言えば炭素をメインに構成される分子のことを指す。我々の体内に存在するタンパク質、DNA、そして我々が摂取する食物、これらは全て有機化合物である。

もっとわかりやすく言うと、「金属っぽくないもの」は基本的に有機化合物と思ってもらっていい(厳密には違うが)。

その中で床下は特に「生物が作り出す毒物」について研究している。毒の研究が人類にどう貢献できるのかというメディア風の問いかけに答えるならば(大学は基本的に見かけ上人類のためにならない研究をやる場なので愚問なのだが)、「新規治療薬の開発につながる」とでも言おうか。

 

まず、有機化学の世界では「毒と薬は紙一重」というのは一般常識だ。全ての化合物は人間に対して何かしらの作用を起こすのだが、その作用が強すぎれば毒となり、逆にちょうど良ければ薬となりうる。

 

例えば我々人類全員が必要とする水の致死量は8 Lくらいだし(飲み過ぎで胃が破裂するわけではない)、ビタミンにも致死量がある。

逆に麻薬として恐れられるコカインは医療現場では局所麻酔薬として使われているし、自然界最強の毒であるボツリヌストキシン(大さじ一杯で日本国民を半分くらい殺せる)は最近ではボトックス注射という名で皮膚のシワ取りなどに用いられている。

 

つまり、新たな毒を見つけるということは、生物に対する新たな作用を見つけることと同義で、それを解明することで未だ不治の病とされている疾病に対抗しうる治療薬ができるのではないかというのが、床下の主な研究目的である。


具体的には、自然界から取ってきた菌を育て、お茶やコーヒーのように成分を有機溶媒と呼ばれる液体を使って取り出し、それを実験動物に投与することで毒性を見て、毒性を示した成分が新しい有機化合物かどうかを分析するという研究だ。

 


その実験動物として用いたのが、回答に記したカイコガだ。漢字だと蚕とも書き、言わずと知れた「シルク」の生産者だ。床下は元々蛾という生物が苦手で仕方なかったのだが、このカイコガを飼育して以来蛾の可愛さに魅了されてしまっている。なかでもカイコガは特別に可愛い。

 

まあまずは写真を見てくれ。

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はい可愛い。閲覧注意などと記載するのはもってのほかだ。まるで妖精のようじゃないですか?

この気持ちを歌にするなら間違いなくBase Ball Bearの「どうしよう」という曲を歌うしかないだろうと思ってしまうな。

 

どうしようもないほど
君のことばかりを考えてしまう
どうしようもないこと
浮かべては消す吹き出し
どうしようもないほど
君のことを好きになってる
どうしようもないほど 
伝えたい この気持ち ああ!ああ!

 

この曲の中に「青春が終わって知った 青春は終わらないってこと」という歌詞があってこれがまた最高なのだが今回の話とは全く関連しないので最高という旨だけお伝えしておきます。

 

 

そしてこのカイコガ、果てしなく儚いのだ。

 

カイコガはシルクの生産者として長いこと人類に飼育されて生きてきた所謂「畜産動物」だ。つまり、人間が飼育しやすいように進化してきた生き物なのだ。

 

まず幼虫は、野生で生きていくための防御手段を全く持たない。アゲハ蝶の幼虫は嫌な匂いを発する角を持っているし、毛虫は見ての通り体表の針のような毛によって鳥や爬虫類から捕食されるのを防いでいる。

弱肉強食の自然界で生き抜いていくために、多くの生物は上記のような防御手段を持っている。

しかし、カイコガの幼虫はそのような類の能力を持ち合わせていない。それどころか、足の力が退化しているため枝を登ることさえままならず、ひっくり返れば起き上がるのにも時間がかかる。野生に放たれれば我先にと外敵が群がる格好の標的なのだ。


そして現実世界に舞い降りた妖精ことカイコガの成虫。成虫もまた幼虫と同様に防衛手段を持たない。それどころか、翅は退化し飛ぶこともできない。そもそもシルクの元となる生糸は蛹の入った繭を茹でることで得るため、殆どのカイコガは成虫へと羽化する事なく死に絶えてしまう。

 


どうですか、めちゃくちゃ愛らしくないですか。

 

人間の力を借りなければ全く生きていくことのできない生物、そしてその生物を飼育すること、毒物を注射することの罪悪感、エゴで生まれた生物に可哀想とか可愛いというエゴを重ねているという感覚、全てをひっくるめて愛らしすぎる。

 

 

これ以上カイコガへの愛を書き連ねると異常性癖の持ち主だと勘繰られそうなので、有機化学の話に戻ろうか。

 

有機化学という学問を勉強していると、日常に溢れる多くの現象を理論づけることができるようになる。

 

どの食材にどの有機化合物が含まれているか何となく分かるため、毎日の栄養バランスを直感的に計算できる

 

水素水や酵素ドリンクなどが本当に健康に寄与するものなのかを判断できるようになる(結果として芸能人や著名人の頭の良し悪しが分かるようになる、藤原紀香とか)

 

お酒がどのようにして出来るのか分かるようになる

 

本屋に入るとトイレに入りたくなる現象(青木まりこ現象と呼ぶらしい)が何故なのか分かるようになる

 

ニンニクを油で炒めるのは何故なのか分かるようになる

 

速水もこみちが何故毎朝のように料理にオリーブオイルをダブダブかけるのか分かるようになる

 


この世界に存在する全てのものは化合物の集合体であり、その多くが有機化合物だ。つまり有機化合物について学ぶということは、世界を学ぶことに等しいものだ。

 

 

前回の記事の最後に「抹茶味のお菓子の色素はカイコガの糞からできている」という話をした。有機化学に詳しくない者から見れば、この文言は「汚い」と思うだろう。

 

 

だが、有機化学を学んだ(大学院生の分際で学んだと言うにはおこがましいが)床下からすると、「汚い」とは一体何だろうと感じる。

 

 

例えば、お酒の話をしよう。

お酒は原料(ビールならば麦や小麦、ワインならばぶどう、日本酒ならば米)に菌による発酵の力を併せることで作り出されている。

酵母と呼ばれる菌が原料に含まれる糖を嫌気呼吸(酸素の使わない呼吸)によってアルコールに変えることで「お酒」と呼ばれるものが出来上がる(日本酒は酵母の前に米のデンプンを糖に変えるコウジカビという菌を使う)。

 

 

文章を読んでよく考えて見てほしい。

 


酵母は糖を「食べて」、アルコールを体外に「排出」している。

 

これがどういうことかお分かりだろうか。

 

お酒というのは、菌の糞でできているのだ。

 


それに限らず、この世に存在する全ての発酵食品はそうやって菌の「排泄物」でできている。

 

そう考えると「汚い」というのがどういうことなのか分からなくなってきませんか?

 

結局のところ、「汚い」というのは言葉のあやであり、「人間に何かしら悪いことをする化合物が毒となる量で存在している状態」を指してそう言うのだ。

 


そう言う意味では、

抹茶味の色素に使われるカイコガの糞も、

イチゴミルクの色素に使われるコチニールカイガラムシという虫から得られるということも、

ゴキブリとエビの皮膚の成分が全く同じであるということも、

「汚い」という感情を持つ必要は全く無いのだ。

 

 


床下としては、お酒や納豆やチーズを美味い美味いと食っている人間が、良くもまあカイコの糞が汚いなどと言えたもんだと思ってしまう。キノコなんて菌の塊を食っているようなものなのだが、皆美味しそうにパクパク食べている。

 

 

床下は以前の記事で「嫌いなものを作りたがらない」という話をしたが、その理由には上記のような背景があるからなのだ。

学問を究めるということは、真理に近づくということであり、また、「自分はまだ何も知らない」ということを思い知るものである。

「知らない」ことは罪では無いが、知らないものや得体の知れないものを「気持ち悪い」「汚い」という批判的な言葉で片付けてしまうことは罪であると感じている。

 

物事の成り立ちや性質を知れば、全ての物事に「良い点」と「悪い点」が必ずあって、差別される存在というものは基本的にない。

それらを知り、良い点を活かし、悪い点を殺し、どう活用していくかということだけを考えていけば、世界はより良くなっていくのでは無いかなぁと床下は常々思っている。

 

 

 

 

 

ところで、武道場に初キスを奪われたあの時の床下の気持ちは科学的にどう説明すればいいんですかね?見識者の方、よろしくお願いいたします。

誕生日、ありがとう

先日10/6は僕の誕生日でした。毛沢東堀北真希と同じ誕生日です。
今年の誕生日は例年にないほど数多くの方からお祝いメッセージをいただきました。本当にありがとうございました。とても嬉しかったです。

 

というわけで今日は誕生日について考えてみましょう。
詳しく言うと「誕生日、おめでとう」という文言についてです。誕生日は何がめでたいのでしょうか。


誕生日は365日のうちの1日です。その期間は一定であり(うるう年は1日増えますが)、365日経過すれば必ず巡ってくる日です。1年のうちに1日しかないのでレア度的な意味ではめでたいのかもしれません。
しかし、オリンピックやワールドカップの開催は4年に1度。レア度的にはこちらの方が高そうですね。でもオリンピック、おめでとう、ワールドカップ、おめでとう、というのはあまり聞いたことがありません。つまり、レア度的な観点からの賞賛の言葉ではないことが推測されます。(まぁ実際はオリンピックやワールドカップは4日以上継続して行われるので誕生日の方がレア度は高いのですが)

 

では何が「めでたい」のでしょうか。無事に1年が経過し、1年契約の生を更新することができたことに対する祝いの言葉でしょうか。
しかし、医療が発達し、食料も潤沢な現代において生を更新することは祝うほどの出来事でしょうか。どうやらこの線も怪しそうですね。

 

他には何が考えられるでしょう。誕生日の性質から考えてみましょう。
誕生日を迎えるということは戸籍上、歳をひとつ重ねるということです。人が大人になることを一つのステイタスとするなら若年者に対してはこの文言は正しいのかもしれません。つまり、子どもに対しては「大人にひとつ近づけてめでたい」という意味で誕生日はめでたさを持つということです。
ですが、「誕生日、おめでとう」はともすればご年配の方にも使うことがあります。まあご年配は「生きてまた歳を重ねることができた」というめでたさがあるのかもしれません。
では30代、40代、に「誕生日、おめでとう」と投げかけることは正しいのでしょうか。換言すれば30代、40代の人にとって誕生日はめでたいものであるのかということです。すでに大人である彼らにとって、誕生日は「大人にひとつ近づけるめでたさ」も「生を更新できためでたさ」も持ってはいません。
これでは誕生日が普遍的にめでたいものであることが立証できません。

 

ここで、誕生日はめでたいものであるという前提に疑問を投げかけてみましょう。
誕生日はめでたいものなのでしょうか。
こう考えてみると誕生日はめでたくない要素がボロボロと湧いてきます。誕生日の日は誕生日ということ以外に特別なことは何もなく、普通に仕事をして、普通にご飯を食べて、普通に寝る。誕生日だからといって身長が伸びたり、寝なくても活動できたり、顔が少し美形になったり、口から火が吹けたりはしません。何もめでたくはないです。
ここまでくるとめでたいってなんなんだ。何がめでたくて何がめでたくないのか、その基準はどこなんだ、みたいな話になりそうですね。

 

そうですね、ここに「誕生日、おめでとう」の落とし所があるのかもしれません。
めでたいのかめでたくないのかは人それぞれだからめでたいと思う人はめでたいし、めでたくないと思う人はめでたくないのです。
人それぞれだなんて元も子もない結論ですが、これが折衷案としては最適なのではないのでしょうか。

 

人は何かにつけてイベントを持ち込みたい生き物です。ハロウィンやクリスマス、正月、誰かの誕生日。それぞれの日は人々がイベントを楽しむためのこじつけのようなものです。そこには恣意性しか存在せず、絶対的なめでたさなどは存在しないのでしょう。

 

ここで僕が以前、誕生日でもなんでもない日に「今日、誕生日なので祝ってください」と虚偽のツイートをしたときにメーンメンバーのnxyくんからきたリプライを紹介します。

 

 

 

 


祝え!なんでもない日!
バンザーイ🙌🙌🎂🎉🎉

 

 

 

至言ですね。もう何も言うことはありません。


さて、最後になりますが、誕生日を祝ってくださった皆さん、本当にありがとうございました。みなさんのお祝いのおかげで、僕の今年の誕生日はめでたいものとなりました。これからもよろしくお願いします。

 


アインシュタインの人

勝手に食わせろ

100の質問
6.嫌いな食べ物は?

 

A.禍々しい何かを感じる食べ物

 

まず、この話題に関しては床下の考える「嫌いな食べ物」について話さなければいけない。

 

床下は基本的に「嫌い」という感情を持ちたがらない。物や事の存在は、多数の要因が複雑に絡み合うことで構成されている。

 

前回の記事で青椒肉絲が好きな理由を「青椒肉絲だから」と述べたのと同様に、全ての物事は多くの材料が組み合わさり、それそのものとして存在している。そしてそれらは須らく、自身を認識した上で周囲に対して存在を知らしめている。

 

床下はその存在を否定したくないと思う気持ちが強い。それは、その存在を成立させている全ての要因を否定することなどできないと考えるからだ。

 

床下の愛するBase Ball Bearの「曖してる」という曲のサビではこう歌っている。

 

喜劇でも悲劇でもどちらでもねぇ
デフォルメもバイアスもねぇ
棚分けしようとすんな
曖してるのさ 曖してるのさ 曖してるのさ 曖してるのさ 君も僕も
理屈も魔法も禁止にして
漠然を抱きしめる
この腕すり抜けても
曖してるのさ 曖してるのさ 曖してるのさ
無編集の世界を

 

読んで分かるように「愛してる」と「曖してる」を掛けている。この世には愛のような「言葉じゃどうにも言い表せないよく分かんねえもの」がたくさんあって、それらを言語化することは必ずしも良いことでは無くて、曖しながら愛せばいいんだよという曲だ。

 

前回の記事で触れたが、床下はこの考えには賛同しかねる。自分の中でどうにか理論立てた考えを展開したいと思っているし、愛というよく分からねえもの選手権第1位の概念を追求することは永遠の課題だと思っている。

 

しかし最後の「曖してるのさ 無編集の世界を」というフレーズは非常に共感が強い。ただそこに存在している物事を、誰に手を加えられるでも無く存在そのままの状態で愛したいと思うからだ。だから元々ある1つの悪い要因を見つけたからといっていちいちその存在を否定したくないと思うし、床下の未だ知り得ない良い要因を見つけてみたいと思う。

 

 

 

もう少し分かりやすく言おう。

 

高校時代の床下には、どうにもいけ好かない部活の先輩がいた。

部活指導は要点をまとめていない上に長いし、口を開けば自分の話ばかりするし、

いかにもな先輩風を吹かすし、

そのくせ部内の好きな異性には媚びを売るし、

俺は部活も真面目にやってるけど学業成績は良いと声高らかに言っておきながら平気で志望校に落ちるし、

とにかく悪いところばかり目立つ先輩だった。
※以下この先輩を裏路地と称する(オシャレになるためのストレートパーマが完全に"裏"目に出ていたためストレートと"ストリート"をかけて陰でそう呼ばれていた)

 


床下が大学に入って数ヶ月経った頃、裏路地に街中でたまたま遭遇した。裏路地は一浪して床下と同じ大学に合格し、同学年となっていた。

 

床下は遭遇するなり「お前この前シカトしただろ」と全く身に覚えのない因縁をつけられ、

続いて「同学年とか関係なく先輩なんだから挨拶しろ」と説教され(その通りだが自分で言うことではない上に身に覚えが無いし今は挨拶をしたじゃないかと思った)、

ついには「そもそも俺は浪人経験も無い苦労の知らないような奴は大学生と思ってねえ」と謎の自己正当化理論で止めを刺された。

 

床下はこの瞬間

 

「あぁ、この人のことは心底嫌いだ」

 

と真に思ったものだが、同時にある景色が思い浮かんだ。

 

それは、裏路地の一家団欒の姿だった。

 

裏路地の家族など一度も見たことはなかったが、裏路地とその父母と話に聞く姉とで食卓を囲み、仲良く談笑するイメージが確かに床下の脳内に入り込んできた。

イメージの中の裏路地は幸せに満ちた顔をしていて、目の前にいる裏路地の顔とは似て非なるものだった。

 

床下は困惑し、自分は明晰夢でも見ているのでは無いかとさえ思い、その日の夜は眠ることができなかった。

長い夜の全てを思考に費やすことで、「自分は本能的に嫌いという感情をはねのけている」という結論に至った。

裏路地は確かに床下にとって嫌うべき存在だが、その裏路地も床下の知らないどこかでは愛されるべき存在として生きている。

父に愛され、母に愛され、姉に愛されてこの歳まで生きてきたはずなのだ。床下は、裏路地に対して「嫌い」という感情を抱くことが、裏路地に対する家族の愛までも否定していることと同義だと思えて仕方がなかった。

 

勿論こんな考えを表明したところで「そんなわけは無い」だとか、「嫌いと思うことは自由で、関わらなければいい」という返答が来ることは予測できる。だが、これは自分の力でどうにかなる問題では無くて、床下がこれまで生きてきた環境によって知らず知らずの内に身についてしまった後天的な本能なのだと思う。

 


そして、このような本能が人に限らず全ての物事に対して働いてしまうのが床下という人間なのである。

 

話の本筋に戻ると、床下にはウニと牡蠣という「食べられないもの」が存在するのだが、これらは決して「嫌いな食べ物」では無い。

床下の味覚が生理的に(つまり科学的に定義されている本能的には)この2つの食べ物を否定しているだけであって、先ほど定義した後天的本能は否定すべきだとは言っていないのだ。

だから3ヶ月に1回程度のペースでこれらは食べるようにしていて、「いずれ美味いと言ってやるからな」という気持ちでいる。

つまり床下にとって「嫌いな食べ物」というのは、「味覚的に受けつけないもの」ではないのだ。

 


だが床下にも「嫌いな食べ物」はある。それは「恣意性を感じる食べ物」だ。もっと分かりやすく言うならば「暗躍を感じる食べ物」と言ったところだろうか。


例えばだが、甘いタレで香ばしく焼いた豚ばら肉をアツアツの白飯の上に隙間無く置いた伝統的かつスタンダードな「豚丼」と、全く同じように作った後に丼の真ん中に温泉卵を落とした「温玉豚丼」があったとする。

 

床下はこの2つがあったら、迷うこと無く前者を選ぶ。察しの良い読者なら気付いていると思うが、別に床下は温玉が嫌いなわけではない。

 

むしろ好きだし、ただでさえ美味い豚丼に温玉をのせたらそんなのもう絶対に美味いに決まっている。

 

では何故後者を選ばないのか。

 

それは「温玉豚丼」を考案した人間の「ほら、温玉のせてやったぞ、美味いだろ、もう間違いないだろ」という感情が丼から漂ってきて、床下には臭くて敵わないからだ。

 

前述したが、物事というのは自然な状態で存在しているからこそ、長所短所こそあれど美しく、そしてそれをそのままの状態で認識したいと思っている。

しかしこの「温玉豚丼」は、第三者の介入によって完全に存在の認識を"強いる"ものとな

 

 

 

 

 

 

 

そろそろエッセイめいた文章で長々と説明するのは飽きてきたので単刀直入に言わせてもらう。

 

 

 

味変は自分でやりたいタイミングでやるから、最初っからやるんじゃねえ!!!!!ー!!!!!!!!!!!!!!!!ー!!!!!!!!!ー!!!!!!!!!!!!

 

 

 

 

他にも床下はお菓子の別味みたいなものが嫌いだ。特に抹茶。「ほら、抹茶味だぞ。お前ら抹茶好きだろ、ほらほら。」という製作者側の魂胆が気持ち悪すぎて食べていられない。つまりは入念にマーケティングされた上で作られたものというのが嫌いで嫌いで仕方ないというお話でした。

 


ところで皆さん、抹茶味のお菓子などの着色料はカイコの糞から作られているって知っていましたか?

 


次回はそれについて触れていこうと思います。