MOSIKASITE

可能性の鉱石 モシカサイト

理想の死に際

最近ブログを書いていなかったので、メーンメンバーに【募集】ブログネタと救援要請を出したところ、メーンメンバー随一のダークホースyamadaより「理想の死に際についてマジで考え、書く」との提案がありました。

即決ですね。

というわけで今回は理想の死に際についてです。少し重い話になるかもしれませんが、よろしくお願いします。

 

さて、みなさんも思春期に一度は考えたことがあるでしょう。

人は死ぬとどうなるのか。

考えたことありますよね?えも言われぬ恐怖に怯えて夜も眠れなくなったこと、ありますよね。死にたくないのにいつか必ず訪れることが決まっている恐怖に支配されたこと、ありますよね。人は死ぬとどうなるんだろう。無になる。土に還る。魂となり、あの世へ行く。他の人に生まれ変わる。などなど……。まあここには色々と宗教観も出てきますし、これから述べる意見はあくまでも持論であって、宗教的な意味はないと思って読んでください。

まず、人は死ぬとどうなるのか。という問いについてです。この問いかけは曖昧すぎるので、もう少し具体的にします。

自分の意識は(自我は)死ぬとどうなるのか。

こうしましょう。

さて、意識とはなんなのかについてですが、これは色々な観点から研究が進められていますね。心理学でもなんか学んだような気がしないでもないです。まあでも多分、自分の持つ記憶に関連付けられた脳の働きの一部のようなものでしょう。知らんけど。脳内ネットワークの違いがアイデンティティの差異として現れてるんじゃないかなと適当にぼんやりとそう思ってます。

なので、人(の意識)は死ぬとどうなるかと言われると、多分、無になるのではないでしょうか。コンピュータの電源を落とすように、ふっと動かなくなるだけです。そのメモリの維持に必要なエネルギー供給も失われ、意識も記憶も無くなるんだと思ってます。あまり詳しくないので、深くは語れませんが……。

まあ、てなわけで、僕は人は死ねば無になるだろうというまあ当たり障りのない見解です。

 

話が少し逸れました。理想の死に際についてでしたね。

理想の死に際……。みなさんはなにかありますか?

これは先ほどの問いかけと違ってあまり考えたことのない人が多いのではないかと思います。そもそも死ぬことについて考えるのが嫌だって人も多いですからね。

死に際について考えたことがある人にも色々意見があるでしょう。家族に看取られて、とか、誰にも知られないように、とか、笑顔で死にたい、とか。

僕は実はあんまり考えたことがないです。というのも理由があって、死に際とかどうでもいいと思ってるからです。強いて言うならできるだけ人に迷惑がかからないように死にたい、ぐらいですかね。

なぜそう思うのかは僕の死生観について少し話した方がいいかもしれません。

こんなところで言うのもアレですが、僕は高校生のころうつ病を患っていました。カウンセリングにかかり、精神安定剤も服用していました。今はケロッとしており、見る影もありませんが。

まあ、そのときに色々と考えました。死ぬのが怖い、死にたくないってのは中学生のときに経験していたので、専ら「死にてえなあ」とだけボヤーッと考えていました。

そして、自分で言うのも何ですが、なまじ頭がいいので、その死にたい気持ちについて色々と考えていました。なぜ自分は死にたいのか。なぜ人は死んではならないのか。生きることを義務として背負わされているのはなぜなのか。などなど。

なぜ自分は死にたいのかについてはまあ考えずとも思い当たる節は色々とありましたね。もう覚えてませんが、とにかく現実がひたすらに辛かったことだけはなんとなく覚えています。まあこれに関してはいいでしょう。

問題は次です。なぜ人は死んではならないのか。これについてとても悩みました。死ぬと周りの人が悲しむから、なんてのは答えになりません。そんなのは感情に訴えかけるだけのチープなセリフです。警察官の言う「そんなことはやめるんだ!親御さんも悲しんでるぞ!」ぐらい効果がありません。ナンセンスです。

世界規模での損失としての観点からも考えました。つまり、若い命が早くに失われるのは損失であるという考えです。これも、あまり実感として迫ってくるものはありませんでした。BUMP OF CHICKENの才悩人応援歌にもありますね。「問題ないでしょう 一人くらい 消えたって」と。そうですね、僕1人死んだところでさして痛手になるとも思えません。僕はスティーブ・ジョブズではないので。これもナンセンス。

考えた中で抑止力として最も効果があったのは親が自分にかけた金が水泡に帰すってことです。これはかなり効きました。今僕が死ぬのは親にとって無駄なことこの上ない、と。当時は他人のことを気にする余裕もないほど心が弱り切っていたので「知るか!死なせろ!」って感じでしたが。

とまあ、他にも色々と考えたのですが、結局納得のいく答えは見つかりませんでした。そして、行き着いた答えは「死にたいなら死ねばいい」ってことです。

そうです。問いかけが間違えていたのです。人は死んではならないことはありません。死んでもいいんです。死にたいなら死ねばいいんです。それも自分の意思のひとつなので。

その答えに行き着いたとき、僕は救われました。自らを自らで啓蒙するあたり、僕には教祖様の素質がありますね。最高。

つまり、僕はいつでも死ねるわけです。死は自由に選択できる選択肢のひとつなのです。死にたいときに死ねる。それはなによりも自由なのではないかと思いました。そして僕は、「じゃあ今死ななくてもいいじゃん。」と思いました。もったいないからです。この先得られるかもしれない金が全てゼロになるのはもったいないと、そう思いました。せめて死ぬのは俺にかかった養育費を親にすべて返してからにしようと。

 

そうして考えは次のステップに入りました。

なぜ人が死ぬと悲しいのか。

拗らせてますねぇ。これはそうですね、「死ぬと周りの人が悲しむから」って言葉について考えてたときにも少し考えました。周りの人は本当に悲しいか?と。

なぜ人が死ぬと悲しいのか。もう二度と会えないからです。どんなに会いたくても愛おしくても、もう二度とその人には会えないし、その人の笑顔を見ることはできないし、その人の将来を眺めることはできません。

拗れている僕は思いました。

それそんなに悲しいことか?と。

確かに死ぬと会いたくてももう二度と会えません。ですが、世の中には生きていても会えない、もしくは会わない人がたくさんいます。小学生のころ隣の席だったあの子や、旅行先で意気投合して酒を酌み交わしたあの人。もう二度と会うことはありません。つまり僕にとってその人たちは死んだも同然です。それに関して悲しいかと言われるとそうでもないです。

今は親元を離れて一人暮らしをしています。特に寂しくもありません。会いたいとも特に思いません。……そういうもんじゃないでしょうか。

人は常に誰かの心の中で死に続けています。死ぬことなんてそんな大層なことじゃないですよ。よくあることなんです。

「いつでも会える」と「もう二度と会わない」はほぼ同義です。「もう二度と会わない」は死と同義です。

 

誰かが死ぬことはそんなに悲しいですかね。

 

こんなことを言うと非情だと言われますが、僕は普段まったく会ってなかったくせに死んだときにだけ葬式に来てオイオイ泣く人の方がよっぽど非情だと思います。故人を自身の印象操作に利用するのはいかがなものかと。

 

脱線しました。

まとめると、人は生きていても誰かにとっては死んでるのと同じだし、生きることにも死ぬことにもそんな大層な意味はないってのが僕の見解です。

なので、死に際とかどうでもいいですね。ついでに言うと、いつ死ぬのかについても僕はどうでもいいです。高校生のときに、もうすでにいつでも死ぬ覚悟はできているので。今はとてもいい状況なのでできれば死にたくはないですがね。

 

長々と話してしまいました。それではまた。

 

 

 

アインシュタインの人