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他人の範囲

先日の床下さんのブログケーンヂくーん - 仮説トイレは読みましたか?

僕が言っていいものかとも思いますが彼はめちゃくちゃ変人ですね。無論、褒めてます。

 

みなさんご存知の通り、僕は話題を捻出するのが酷く不得手な人間です。初対面の人とは何の話をしたものかと考えあぐねますし、話題が尽きれば天気の話しか出てきません。こないだはあまりの話題のなさに天気の話を突き詰めすぎて、中学生の理科レベルにまで話を掘り下げてしまいました。嘘です。

話題が捻出できないという話を一般化しますと、つまり、僕はゼロからイチを作り出すのが至極苦手なんですね。その代わり、イチのものをヒャクにもニヒャクにも押し広げるのはとても得意なんです。その弊害として、先ほどのように話がどんどんあらぬ方向へとズレていくこともしょっちゅうです。なーにが中学生の理科レベルだ、もうちょっとマシな話をしろ。すみません。

そういうわけで、先述した床下さんの記事から少しインスピレーションを受けて、僕の話をしたいと思います。

 

さて、彼は記事の中で彼にとっての友達をこう定義しています。

つまり床下の友達は基本的に無神経で、相手の顔や言葉尻を捉えていちいち一喜一憂しないような人間ということだ。

なるほどといったところです。まったく共感はできませんが、彼にとってはこれが友達だそうです。友達の幅がかなり限定されていますね。共感ができない分とても興味深いので是非とも根掘り葉掘り聞きたいところですが、それは今回の記事にはそぐわないので割愛します。

僕にとっての友達は彼とはまったくの真逆で、顔を知っていて、一度でもメシを一緒に食えばそれはもう友達、と、かなり門戸を開いた感じになっています。最悪、名前を知らなくても友達認定してしまいます。僕のことは尻軽クソビッチと呼んでも差し支えないでしょう。

しかし、実はこれは逆説的に門戸を閉ざしている状況を作り出しているのです。

何を言ってんだこいつはという感じなので説明します。心理学部卒業なので少し心理学の話も盛り込みつつどういうことかを説明しましょう。めんどくさい話をしているので、めんどくさい人は読み飛ばして下さい。

人にはパーソナルスペースというものが存在します。これ以上近づかれると不快感を感じるという「物理的な」距離のことです。3人がけのテーブルがあって見知らぬ人と座るときに真ん中の席を空けて両端に座りたくなるアレのことです。ナワバリや武術でいう間合いのようなものだと理解してください。エドワード・ホール氏は自己を中心に取り巻く泡のようなものだと表現しています。

さて、物理的な距離を表すパーソナルスペースですが、これは相手との関係によって変化します。見知らぬ人に肩を寄せられたら気持ち悪いですが、恋人に肩を寄せられたら受け入れますよね。そういうことです。

つまり、心理的な距離が物理的な距離に反映されて現れているようなものだと解釈できます。

そして、自己を中心に、家族や恋人が位置する親密エリア、友達などの友達エリア、知り合い程度の顔見知りエリア、赤の他人の他人エリアが同心円状に形成されるとイメージして下さい。(名前は俺が勝手につけました。ちゃんとした名称もあります。)

で、この友達エリアが僕の場合、顔見知りエリアにまで拡大されているってことです。門戸を開いているってのはこういうことです。みんなにとって顔見知りに位置する立場の人も僕にとっては友達に分類されます。そして、もちろんエリアの拡大は友達エリアのみにとどまりません。つまり、親密エリアも友達エリアにまで拡大しています。すなわち、友達の基準が甘い僕にとって友達は、みんなのイメージする友達よりも自己から距離の遠い場所に位置する存在なのです。これが門戸を閉ざしている、の意味です。

さて、ここまでまじめに読んで理解してくださった方は疑問に思うかもしれません。親密エリアが拡大しているなら、自己のエリアは拡大していないのかと。親密エリアは自己のエリアに侵食されていないのかと。その通りです。素晴らしい。ハナマルをあげます。

そう、自己のエリアも無論、拡大しています。しかし、自己は自己であり、その大きさは変化しようのないものです。つまり、自己と親密エリアとの間に空間が生まれ、そこに俺はあの進撃の巨人もびっくり、ベルリンもびっくりの大きな大きな分厚い壁をこさえています。俗に言うATフィールドというやつですね。カッコいい。床下さんの場合はその壁の中に自己のほかに友達も入っているのかもしれない、とそんなイメージをしています。

そして、ここでタイトル回収です。

あなたにとって、他人の範囲とはどこからでしょうか?文字通り、赤の他人のことを指しますか?

僕にとっての他人は僕以外の人すべてを指します。

家族も、恋人も、友達も、赤の他人も、みんな他人です。そこにある差異は、思い出の数と、関わる責任と、それぐらいです。みな、等しく価値を持ちます。

そして最後にひとつ。他人に優しく!

 

 

 

アインシュタインの人