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可能性の鉱石 モシカサイト

2011年3月11日

 昔話をしたい気分なので、9年前の3月11日の話を書いていこうと思います。何故なら今までの人生で一番記憶が鮮明だから。ちなみに特に笑う点も泣く点も無く、ただただ僕の鮮明な記憶が垂れ流されいるだけですのでご了承ください。

 

 

背景

 当時の自分は宮城県仙台市に住む高校2年生で、あとひと月で受験生になろうという時だった。東大やらその他旧帝大やらへの進学生徒数が県内トップの高校に通っていたので、「大学に行く」ということは「人間は哺乳類である」と同じくらい当然のように扱われる世界で過ごしていた。と言っても、自分はまあ絵に描いたような劣等生で……。部活*1そこそこ、遊びそこそこ、恋愛そこそこ、勉強嫌い、学力最悪 (クラス内でビリ)、特技無し、体型微妙、書いていて悲しくなるくらい特筆すべき青春や能力が見当たらない人間だったと思う。勿論学力だけで言うなら、日本中の同い年の中ではそれなりに上位にいたんだろうけど、当時の自分にとっては通っている高校こそが社会そのものに感じられていた。しかし、そこから遡ること3か月前の三者面談で、母親には「ガッコの授業は俺には合わん!お金を払ってもらうことになるけど頼むから塾に行かせてくれ!!そしたら成績上がるから!!!」、担任には「先生方は俺にかまわなくていいんで!俺は塾の力で大学に受かるんで!!」と謎に息巻いてしまった手前、勉学については頑張らざるを得なくなっていた。そんなわけで、9年前の3月の自分というのは、最も頑張りたくないものを頑張らなければいけないことに悩み苦しむめっちゃ可愛い奴だったわけだ。

 

2011年3月11日金曜日

6時30分

起床。いつも通り高校に向かう準備を始める。授業を受ける意味が自分には無かったので基本的に高校には行きたくなかったが、友人との会話や部活のことを考えて何とかモチベーションを保っている状態だった。しかもこの日はマークシート形式のセンター試験模試だったから、「つまらん授業聞くくらいならまだ模試の問題解いてるほうが良いか……」などと考えていた。

 

6時45分

家を出て、市街地に位置する高校に向かう。冒頭に仙台市在住と書いたが、仙台は「デカすぎんだろ……」ってくらい大きい市で、ビルが立ち並ぶ仙台駅周辺の市街地から田園風景が広がるド田舎まで全部仙台市内だった。自分はというと、仙台市のだいぶ西側に位置する、周りには田畑と大仏*2と地元銘菓の工場*3ぐらいしかない閑静な住宅街に住んでいた。最寄り駅である愛子駅*4でさえ歩くと30~40分かかる土地であり、両親はいずれも教師で自分が最後に家を出るような状態だったため、高校へ向かう交通手段は40分ほどかけて市街地へ向かう市営バスくらいしかなかった。しかしこのバスは1時間に1本しか無かったため、6時50分発に乗り遅れれば自動的に遅刻が確定する仕様になっていた。そんな不条理にイライラしつつも渋々バスに乗り、住宅街を抜け、作並街道*5を通って市街地へ向かった。

 

7時25分

 厚生病院付近でバスを降り、女子高を横切り、澱橋*6を渡って高校へ歩く。後になって「そう言えば……」と思い出したのだが、この日は澱橋の上空や街灯にいつもは見かけない鳥がやけにいたように感じる*7

 

7時35分

 高校に到着。めちゃ早い。教室には1~2人程度しかいない。塾に通い始めてから高校では自習しないと決めていたので、始業時間までは暇だった。あんまり記憶にないけど、剣道場に置いてあったるろうに剣心を読んでいた*8Twitterを見ていた、自習している友人に話しかけて邪魔していた、これのどれかだと思う。

 

8時30分

 始業。40分だったかもしれない。もしくは50分。とにもかくにも模試が始まった。

 

~12時00分

 模試。科目は覚えていない、3教科4科目だったと思うから国語と英語だった気がする。国語については読書の習慣があったため特に苦手意識は無く、概ね時間通りに回答した。英語については読めないし聴けないのでただただ苦痛だった。特にこの高校の生徒は何故か平均的に英語の成績が良かった*9ため、自分は完全に英語にコンプレックスを抱えていた。

 

~13時00分

 お昼休み。毎日食堂で定食やら丼やら麺やらを食べていた。自分は剣道部のくせに一緒に食べている友人は全員テニス部だった。思えば、テニス部は性格が悪いという偏見を持つようになったのはこの頃からだったかもしれない。

 

~14時00分

 模試再開。数IAだと思う。昔から暗算が苦手だったため問題用紙は筆算で埋め尽くされていたが、大して解けてはいなかったはず。

 

14時05分~

 数IIBの試験開始。数列と漸化式とベクトルは全く理解が及んでいなかったが、もうすぐ模試が終わることへの喜びが勝っていた。

 

14時45~46分

 数IIBの試験中。突然、自分のケータイからバカでかいアラーム音が鳴りだす。周りのクラスメイトから睨みつけられたり笑われたりしてめちゃくちゃ恥ずかしかったが、自分でも何故ケータイが鳴りだしたのか不思議で仕方なかった、基本的にマナーモードなのに。そんなことを考えていたのはきっと数秒だったのだと思う。直後、クラスメイトの携帯から続々とアラーム音が鳴り始め、「ほれ見いーーーー!!!!!地震の警告アラームやんけーーーーーーー!!!!!!」などと茶化そうとした瞬間、本当に地面が揺れ始めた。

最初の数秒は震度4~5程度だったと思う。仙台は元々地震の多い土地で、震度4くらいは日常茶飯事だった。しかもこの日のちょうど1週間前に震度4~5の地震があったばかりだったため、クラスにいる全員が「ちょっと大きめの地震だね」ぐらいの認識だったと思う。しかし、その揺れが数秒続いた後、経験したことのない揺れが衝撃のようにドッと来て、途端にクラスは騒然となった。激しい横揺れだったため、椅子に座っている状態でも姿勢を保つのが困難なほどの揺れで、教室内にある殆どのものが左右に動き始めた*10。殆どというか、多分クラスメイト全員が机の下に潜り込んで揺れがおさまるのを待っていたが、割と多くの人が笑っていたように記憶している。何なら問題用紙とマークシートを机の上から取って解き続ける奴もいたりして、それがクラスメイトの笑いを誘っていたような気がする。今になって考えると、あれは直接的な命の危険を感じていなかったからなんだと思う。停電はあったが、床が崩れるとか、逆に天井が落ちてくるとか、建物が崩壊するとか、そういうのは特に無かった。だから笑えていたんだと思う。でも、その揺れが30秒続いて、1分続いてとなっていくうちに、徐々にクラスメイトの顔から笑顔が消えていった。この揺れは一体いつまで続くのかという不安が教室の雰囲気から感じ取れた。実際に続いた揺れは2分半くらいらしいが、当時の自分にはえらく長い時間に感じられた。そうはいっても、自分は度の超えた楽観性を有していたため、割と最後までずっと「やーば笑」とか言って笑っていた気がする。

 

14時50分

 ようやく揺れが収まり、続々と皆が机の下から出てくると、職員室にいたであろう先生方が廊下を忙しなく走っているのが見えた。自分の教室にも担任の先生が来て、模試はその状態で中断として、荷物を持って校庭へ避難するように指示された。机の上はそのままに、荷物をまとめて教室を出た。解き切れなかったベクトルのことを考えていたりした。

 

15時00分~16時00分頃

 校内の全員が校庭に集合した。とはいっても卒業式を終えていたので、高3はいなかった。周りを見渡すとちらほらと泣いている女子生徒もいたが、基本的に殆どの生徒はいつも通りで、突如訪れた非日常に若干興奮している奴さえ少なくなかった。空を見るとテレビ局かどこかのヘリコプターが飛んでいたりして、それに手を振っている友人もいた。自分は友人たちと話しつつ、中々繋がらないメールで何とか両親に現状報告を試みてみたり、Twitterを見たりしていた。とはいっても、あの頃のTwitterは利用者数も今ほどおらず、同じ高校の友人や後輩しか基本的にはフォローしていなかったため、たまに情報通のフォロワーがRTする地震情報なんかを見るだけだった。

 30分くらい経っただろうか。職員側から、家に帰れる者は帰宅、帰れない者はひとまず講堂的な場所に避難して最悪の場合はそのまま宿泊という指示が流れた。県内随一の進学校だったこともあり、大半の生徒は市街地に程近い土地に住んでいたため、多くの生徒が帰宅し始めた。自分はド田舎在住だったが、ちょっと歩いてバスに乗れば着くような場所だったため、バス停に歩き始めた。

 

16時00分頃~

 一人になると途端に少し不安になった。街の雰囲気がいつもとは違っていたからかも知れない。空からは大粒の雪がドカドカ降っていて、17時前なのに辺りは薄暗くなっていた。朝来た道を戻りながら周りを見渡すと、いつもより渋滞がひどかった。バス停にたどり着くと、付近のコンビニに行列ができていて驚いた。その時点ですでに陳列棚からは多くの商品が消えていた。地震で崩れたのを片付けたのと、近隣住民の買いだめによる売り切れだろうと考えたりした。そんな異様な雰囲気なのに、案外自分は落ち着いていた。阪神大震災などの話はメディアや授業などで聞いていたから、地震は油断できない災害だとは思っていたが、あの時とは時代が違うという考えが自分にはあった。ましてや高校の校舎は廃墟*11と言われても仕方ないような築年数だったことから「あの高校が崩れないんだから大半の家屋は崩れないだろうし、死者も大して出ないだろう」と考えながらバスが来るのを待った。

 数分待っていると、サラリーマンらしき人がバス停に並んでいる人全員に向かって「八幡~郷六のあたりで土砂崩れがあって作並街道が通行止めらしい」と話し始めた。その辺りは建物が殆ど無く、広瀬川に沿って作られた隘路だった。そして、唯一の帰宅手段であるバスもそこを通る予定だった。この瞬間、自宅に帰れないことが判明した。両親と何とか連絡は取れていたが、体育館を避難所にする準備*12などで迎えには来られない様子だった。しかし、自分はどうしても高校には泊まりたくなかった。ただでさえ行きたくないのに、どうして泊まることができようかという思いだった。その時、八木山*13に一人で住む祖母のことを思い出した。母に聞くと、まだ連絡は取れていないということだったので、歩いて八木山の祖母の家に行くことにした。

 

16時30分頃~

 またもや今来た道を逆戻り。相変わらず大雪が降っていて、歩道には靴が半分埋まる程度に積もっていた。足元が悪い中、澱橋を渡って高校を通過し、東北大学と国際センターの間を通って青葉城*14に向かった。青葉城の石垣はところどころ崩れており、天守へ向かう階段付近の灯ろうも完全に崩壊していた*15

 青葉城址の駐車場入り口を通過し、八木山橋*16にたどり着いたところで、人だかりができていた。近づいてみると、橋と道路のつなぎ目の部分に亀裂が走り、30 cm程度の段差ができていた。何とか渡ろうとしてスタック気味になった車を皆で救出しようとしてるようだった。自分は手伝わずに橋を渡った。この時も割と「すーげー笑」くらいの感想で流した当時の自分を凄いなと思う。凄いというかちょっとアホだし、思いやりが無いし、パニック映画とかで一番最初に死にそうと思ったりする。八木山橋を渡り、八木山ベニーランド*17に向かってちょっと長めの登り坂を歩いていた。まだ高校生で体力も今よりはあったので良いペースで登っていると、スーツ姿のおじさんに追いついた。軽く会釈すると「あの…ライター持ってないですか?切らしちゃって…」と尋ねてきた。多分タバコを吸いたいんだろうなと思ったが、自分がタバコを吸う年齢に見られていることに若干のショックを覚えたりした。「まだ17歳だぞ俺は」と思いつつ、ポケットに入っているライターを渡した*18。「何か凄いことになってますね」「会社とかどうなるんすかね」とか適当に話しつつ一緒に坂を登り切り、話題も無くなったので追い越して先に行くことにした。八木山動物園*19前のセブンイレブンを通過して坂を下った。

 八木山には築年数の長い家屋がそこら中にあったため、囲いや家の壁の所々にひび割れが見えていた。祖母の家に着く直前で個人商店に寄ると、ポテトチップスくらいしか残っていなかった。バス停前のセブンイレブンで何か買っとけばよかったと後悔しつつ、まあ無いよりはマシかとポテチを買った。

 

18時30分頃~

 祖母の家に到着。祖母は「よく来たね~」というまるで震災なんか無くて普通に遊びに来たみたいな雰囲気で接してきて、この楽観性は遺伝かなと思ったりした。対して、元々物が多く余計な買い物をしては叔父にしかられるような祖母だったため、家の中はぐちゃぐちゃだった。それらを片付けつつ、独り言か自分に言っているのか分からない東北訛りの祖母の言葉を聞いていた。地震が起きてから屋内に入ったのはこの時がほぼ初めてだったためそれまでは気づかなかったが、震度3~5程度の余震が何度も起きていた。

停電で明かりは蝋燭と非常用のライトしかなく、水道もガスも止まっていた。幸い風呂場には残り湯があったため、トイレは残り湯を使って流した。当然ながらテレビは観られず、ケータイしか情報収集の手立ては無かったが、Twitterでフォロワーとさして必要でもない会話をしているうちに充電も切れようとしていた。そんな時、片付けた物の中から乾電池式のラジオを見つけたため、そこからはひたすらラジオを聞いていた。地震があった地域の震度情報、交通状況、地震による被害状況などが延々と繰り返し流されていた。その中に、津波による被害状況もあった。「津波により沿岸部が水没し、○○名が行方不明となり~」といった情報が流されていたが、そこまで多い数字ではなかったし、津波による被害というものを目にしたことも耳にしたことも無かったため、それほど気にも留めず聞き流していた。今となっては、日が落ちて雪も降り現場も混乱している中で、被害状況を正確につかむことができていなかったのだろうと思う。同じような情報が繰り返し流れているだけだったため、布団に入りながらラジオを聞いていた自分はいつのまにか寝てしまっていた。こうして長い一日が終了した。

 

3月12日

 電気も無く早々と寝てしまっていたため、祖母よりも早い時間に目覚めた。祖母の家や周囲の家の被害状況を確かめるために外に出ると、郵便受けに河北新報の朝刊が入っていた。「こんな時でも新聞屋は大変だな」などと考えながら一面を開いた瞬間、体中の血の気が一気に引いて鳥肌が立った。一面には仙台市の隣に位置する名取市の沿岸部が水没している上空写真がでかでかと掲載されていた。言葉が出ず、祖母に見せに行くのも忘れてその場に立ち尽くした。自分は幼い頃から視覚による情報を最も取り入れやすい節があったため、ラジオや文面だけではいまいち事の重大さが分かっていなかったのだと思う。極度の楽観主義の自分も、笑っていられる状況ではないことをこの時ようやく実感することになった。

 

 家にいる母から、車で迎えに行くと電話があった。自分が渡った直後、八木山橋は封鎖され、その他八木山に通じる橋も続々と封鎖され、残すは愛宕大橋*20を残すのみとなっていた。愛宕大橋まで封鎖されてしまうといよいよ自分がしばらく家に帰れなくなることから、母は急いでいる様子だった。母が着き、祖母も家に連れていくつもりだったようだが、祖母は頑なにそれを拒んだ。非常時だからこそ、長年住んだ家を離れたくなかったのか、祖父の仏壇に毎日お線香をあげたかったのか、理由は分からない。母は半ば切れていたが、渋々了承して家に向かった。八木山を向山側から長町*21方面に下り、愛宕大橋を渡った。広瀬通*22から西道路*23へ向かい、国道48号線*24を通って帰宅した。

 

 

 ここから先の記憶は断片的であまり鮮明ではない。家の被害は風呂のタイルに若干のヒビが入ったのみだったが、電気ガス水道は相変わらず使えず、数日間は復旧しなかった。昼は中学時代の友人たちと青葉区の総合支所まで自転車で水をもらいに行った*25り、車の給油の付き添いとして長蛇の列のガソリンスタンドに並んだりした。夜は特にすることもないため、19時頃にはすでに寝ていた。朧げだが、最初に電気が復旧したと思う。すぐさまケータイを充電し、テレビをつけた。とはいっても、テレビでは2週間くらい娯楽が一切流れず、地震に関する情報と「ぽぽぽぽ~ん」で有名なACのCMが絶えず流れていた。だから基本的に自分はTwitterを見ていて、ACのCMのネタツイートをふぁぼったりしていた。現在、新型コロナの影響で全国の学校が休校となっているが、あの時もまさにそんな感じだった。自分はいたって健康なのに娯楽のための外出は許されない雰囲気で、震災の時は電気もままならないため、家の中の娯楽も限られていた。自分が元気なのに娯楽を楽しめないということがあんなにも辛いことだとは思わなかった。1週間ほどして、学校が4月の中頃まで休校と告げられた。我ながら能天気な奴と思うが、しめしめという感じだった。加えて塾は既に開校していたため、それからは毎日塾に行っていた。

 全く通常通りの生活に戻るまでに、母は何回かヒステリックになった。我が家は両親と兄と自分の4人家族で、女性は母だけだった。男どもは全員アホほど楽観主義だったため、毎日何をするでもなくのんびりしている姿が気に入らなかったのだろうと思う。Twitterや友人とのメールを見ていた感じ、どの家の母親もそんな感じであることが分かった。家を守る意識が女性のほうが強いのかも知れないなと思ったりした。でも原発のニュースを見て千葉にある父方の実家に自分と兄を避難させようとしたときはさすがに男総出で止めたのを覚えている。特に兄は大学で放射性物質に関する研究を行っていたため、原発への過度な心配を良しとしていなかったようだった。

 

 

 

 

 以上で昔話は終了です。読んでいただいた方には分かると思うんですが、自分は殆ど全くと言っていいほど地震の被害を受けませんでした。それどころか、家族も、家も、友人も、自分に深く関わっている全員がそうでした。学校が無いことも全く苦では無かったし、部活も無く一日中塾で勉強できる環境は割と自分に合っていました。だから、自分が被災者かと問われると、正直違うんじゃねえかなと今でも思います、終始ヘラヘラしていたし。大学に入った*26り就職したりしてから出身を告げると「あの時は大変だったでしょ?」という言葉を幾度となくかけられたんですが「や、自分は内陸の人間だったんで」と言うしか無かった。そんな自分でさえ、上にだらだら書いたように9年たった今でもあの日の記憶が鮮明に思い起こすことができる。1週間前の一日の流れでさえ、こんなに鮮明には覚えていない。それだけ、あの日が異常な一日だったのだと、今になると思う。だから、津波の被害に遭った方や、その他大きな災害に襲われた人、戦争を経験した人、そういう人の記憶ってのは遺されていく必要があるんだろうなと思ったりします。

 

 因みに今回は文章内にめちゃくちゃ注釈を付けて、土地名などをできる限り実名で出させていただきました。仙台を知っている人になるべく想像しやすいようにしたかったのと、一番の目的は仙台に転勤したアインシュタインさんのためです。アインシュタインさん、是非「あの日の記憶聖地巡礼ツアー」をしてみてね。はあ、くそつまらん記事は書かんと言った矢先に書いてしまったな、さようなら。

*1:不真面目なくせに剣道部だった

*2:自分が小学生くらいの時に何故か建立された

*3:最中やないかい

*4:皇族の愛子様が生まれた時に話題になったらしい。ラーメン激戦区

*5:自分が高校2年の時は国道48号線だったが今は県道31号線になっているらしい

*6:牛越橋、仲の瀬橋とよく間違えられる。一年に一度くらい羽虫が大量発生して一週間くらい生臭くなる

*7:大学に入ってから澱橋近くの赤門自動車学校に行った時、指導教官が「あの日の前日くらいから海鳥が教習所にめちゃくちゃいたんだよねえ」と言っていて思い出した

*8:何故か部室は無かったが、臭くて誰も寄り付かないので授業をさぼるときもよく使っていた

*9:幼い頃から英才教育が行き届いている家が多かったためと思われる

*10:後から聞いた話だが、仙台市中心部の震度は6強だったそうだ

*11:卒業してからエアコンが導入されたらしくて羨ましい

*12:教師がするんだ...とこの時少し驚いた

*13:坂が多く古い住宅街。不動産屋は県外から来た東北大生を何とかここに住まわせようとするが、交通の便が悪いため住んだ瞬間終了である。最近は地下鉄が通って若干便利になった。亀鶴庵というドカ盛りの定食屋がおすすめ。

*14:伊達政宗の城。城址と言っているが、元々県外の人が想像するような天守閣は無い。青葉山に沿うように崖の上に作られており、その地形こそが敵に攻められにくい城壁そのものだったからだ。なので天守に向かっても市街地が一望できる景色と政宗公の像くらいしか見どころが無い

*15:後から知ったが、この道は次の日には通行止めになっていたらしく、それから何年も修復工事が行われていたため、自分は崩れている青葉城址の姿を見た最後の人だったのかもと思ったりした。そう思うと、写真の一枚でも撮っておけばよかったと後悔したもんだった。

*16:自殺の名所として知られる仙台随一の心霊スポット。あまりにも自殺者が多いために橋には延長柵まで取り付けられているが、それでも自殺者が後を絶たない。最近では少年ジャンプに登場したりもした。

*17:仙台ハイランドが潰れて、実質的に仙台唯一の遊園地となった。仙台に住んだことがある人の中でこの遊園地のオリジナルソングを歌えない者はいない。老朽化しすぎてジェットコースターがめちゃ怖い。

*18:何で持ってたんでしょうね、ははは

*19:仙台随一の動物園。今は名前が違うんか?個人的には割と集客のために展示方法とか頑張ってんじゃんという印象がある。

*20:五橋から長町にかけてかかる橋。県立の武道場が長町にあるため、部活の試合の時はよく渡っていた。近くにある長町ラーメンが美味い。

*21:自分が高校生のころから最近に至るまでずっと開発が続いている土地。あの頃は映画館つきの大型ショッピングセンターくらいしか価値が無かったが、IKEAができてからちょっとレベルが上がった。ただし地盤が弱いという説が長年続いており、リスクヘッジが凄い人はあまり住みたがらない。

*22:仙台駅から西に向かって伸びるメインストリートの一つ。他に青葉通り、定禅寺通り、南町通りなどがある。広瀬通りはオールラウンド、青葉通りはビジネスライク、定禅寺通りはオシャレな休日、南町通りはディープという個人的な印象がある。

*23:市街地から西に向かって伸びるめちゃ長いトンネル。入口と出口で天気が違うくらい長い。

*24:仙台市の西側に住む人々の全員が絶対に使う道。通称ヨンパチ。

*25:住んでるとこは山の上のため、行きはよいよい帰りは地獄だった。

*26:ちなみに現役で受かりました。やったね。