みなさん、他人からの承認は足りていますか?
足りてませんか?足りない人、多いかと思います。
本日は承認欲求の満たし方についてのお話です。よろしくお願いします。
さて、巷で話題の「承認欲求」。最近よく目にしますね。
これは何かと言いますと、認められる欲求のことですね。説明になってないですね、すみません。
例えば、承認欲求満たすためにSNSに自撮りを載せてみたり、面白ツイをしてみたり。そうやって賞賛を受けることで自分は認められている、極端に言うと「自分がこの世に存在する」ことを他人によって承認してもらう状況を欲する感情でしょうか。自己肯定感の低い人が求めがちなアレです。また自己肯定感とかいうニューワードを使ってしまった、すまん。もうめんどくさいからこれ読んでもわからなかった人は調べてくれ。
で、この感情の厄介なところは満たされるか否かは全て他人任せであるという部分です。自分ではなく他人というコントロール不可能なものに依存するしかないというのは、なんとも不確定で不合理極まりないですよね。
しかもこの承認欲求は他の欲求を満たしたところで満たされることがない、つまり他の欲求の満足では代替不可である、というのがまた厄介ですね。いやまあお腹が空いている人に水を与えても意味ないですからね。そりゃそうなんですけど。まあ代替不可っていうのはそういう感じの意味だと思ってください。
つまり、承認欲求が満たされていない人は承認欲求を満たすための行動をとり続けて承認を得るしかないわけです。この承認欲求の高さは自己肯定感の低さにも比例するのですが(鶏が先か卵が先か、みたいな話でどっちが発端かはわからないですが)、その状態が恒常的に続くようであればいずれは精神にも影響をきたし、疾患になる可能性も秘めているわけです。
これは由々しき事態であり、当然避けられるなら避けるべき事象ですよね。
さて、ここから本題です。じゃあどうやったら承認欲求が満たされるのかって話です。
先ほど承認欲求は他の欲求の満足では満たせないという話をしましたが、これは少しウソです。つまり何が言いたいかというと、自分自身からの承認によって(多少は)代替可能であるということです。自分自身で自分を承認してあげればいいのです。
おい待てアインシュタインの人よ、と。それができるやつは自己肯定感が高いだろう、と。自己肯定感が低いから承認を欲しているんだ、と、そう言いたいんですね?わかります、わかりますよ。私もそこまでバカじゃない。パンがないならお菓子を食べればいいじゃないなんてマリーアントワネットさながらの話をするつもりは毛頭ありません。
いいですか?今、この問題は「どうすれば自分自身を承認できるか」という問題を解決すれば解消する手筈を整えているんです。要は、この「自分自身を承認できるか」問題を解決しさえすれば、他人に依存する承認欲求を満たせる(自分自身の承認によって代替可能なため)ので、そこを解決しようぜ!って流れです。
じゃあ自分自身をどうやって承認するのか。
結論はシンプルです。
他の追随を許さないほどの圧倒的実力を身につけるんです。
いやいやいやいや、言いたいことはわかる、わかるぞ。みなまで言うな。
俺達ァそれができねえから苦労してんだろ!!って話ですよね。
でも少し考えてみてください。
何の努力もせずに承認される人間がどこにいますか。生きているだけで承認されるのなんてせいぜい赤ちゃんぐらいでしょ。
勉強もしてこなかった、スポーツもしてこなかった、努力と言われるものは何もせずのうのうと生きてきた人間が承認されるわけないんです。他人からも自分からも。なのて、みなさん、何かしら努力をしてください。
努力をしたのに他人からの承認が得られない場合は自分で承認してあげてください。努力した自分を褒める、もてはやす。大事なことです。それで承認欲求は多少満たされます。あとは努力を続けるのみです。
例えば普段本を読まない人が本を一冊読了した。素晴らしいことです。本を読み終えたときの達成感、読み終えたという事実があなた自身を少しだけ強くします。その「少し」をたくさん積み上げるだけです。普段できなかったことが達成できるとそれは達成感に繋がり、達成感は自己肯定感に繋がり、自己肯定感は承認欲求を満たすことに繋がります。
何もせずに承認欲求を満たせるようなお手軽な手法は存在しません。まずは普段の自分ならできない小さな事柄(ex. 読書、掃除、お洒落、運動)に挑戦してみましょう。
それを積んで積んで積んで積んで高い高いバベルの塔のような自己肯定感を築き上げましょう。そうやってできたバベルの塔は神によっても崩されることはないでしょう。
アインシュタインの人