仮説トイレ

わかられた…

人を愛するということ

こんにちは。福岡へ帰る新幹線の中で書いています。

先日、我がブログのボス、トンミルさんとお話をしていまして、「人を愛するとは何なのか」というウンコみたいな話をしていました。今回の記事はそれに関連した反省文のような話です。

 

端的に言うと俺が人を愛せないって話です。まーた中二病みたいなこと言ってますが真面目な悩みです。安心してください。

とは言っても、僕にも彼女がいた時期があります。Twitterのフォロワーに元カノがいるから弁明する、というわけではないですが、付き合っていた時分は間違いなく愛していました。最近になって恋人の愛し方や接し方がわからなくなってきたって感じの主旨です。

それを語るには僕の性格から話しましょう。「俺は俺は」トークばかりで「ンなモン興味ねーわ!」って人もいるかもしれません。すまん。

 

そもそも僕は人と接するのがあんまり得意じゃないんです。

というのも、ウチの母親は自営の接客業をしてまして、それはもうベラベラベラベラと一日中話し続けているような人でして。幼い頃の僕は、まあ、本当に小さい頃ですから、家族にだけ話すような秘密とかも親に話していたわけです。ある日、その母親の職場で僕は母親の仕事が終わるのを待っていたんですね。多分、宿題か何かをしていたと思います。そうしてふと母親の話を聞くともなしに聞くと、家族だから母親だからと信頼を寄せて話した僕の秘密を客にベラベラと話していたんですね。「ナイショだよ」とかなんとか言っておけば母親も話さなかったんでしょうが、特別に口止めすることもなく、「まあ人の秘密をベラベラ話すことなんてないだろう」と、こちらが勝手に思って話してしまったから仕方ないんでしょうが、幼心にそのことに酷く傷つきまして、「例え身内であっても信用してはならない」と思ってしまったわけです。

幼い頃に最も信頼を寄せていた存在に裏切られた(と思い込んでいた)経験は僕の人格形成に些事では済まない影響を与えました。最も信頼を寄せる人間ですらそういった状況ですから他人なんて何をしでかすかわかりません。本心や秘密はすべて墓まで持っていくのが正しい生き方であると思ったわけです。

とまあこういった経緯で、僕は人と接するのがあんまり得意じゃないんですね。

 

しかし、そうやって本心をひた隠しにして生きるとやはり交友関係に不都合が生まれるわけです。本心を曝け出さない人に本心を曝け出す物好きなんていないですからね。親友というものができませんでした。それなりに仲のいい友達はできますが、皆一様にそれなり止まりでした。24になった今でも連絡を取り合うような小学中学高校の友達はついぞできませんでした。SNSで繋がることはあっても連絡を取り合うことは皆無です。刹那的な友好関係しか築けなかったんですね、かわいそうに。

そんな僕が処世術としてどうしたかと言うと抜け殻の自分をもう1人作ったわけですね。そうですね、仮面みたいなものでしょうか。幸か不幸か人とは一歩引いて接していたものですから、どういう人にどういう反応を示したら好意を抱かれやすいかという分析はよくやっていました。つまり人によって接し方を変えて、八方美人になろうとしたわけです。(人によって接し方を変えていると複数人で行動するときに整合性が取れなくなるので、最終的には万人受けするピエロ役で安定しましたが。)

しかし、仮面は所詮仮面なので本心を曝け出すことで築けるような深い関係性は築けませんでした。そこで僕はその仮面に仮面の本心を作りました。つまり、表の性格も裏の性格もすべて泥人形で作り上げたわけです。

もうここまでくると泥沼です。まったくもって身動きが取れず、二進も三進もいきません。

しかし、そんな僕にも幾度か彼女ができまして、ただ、そんな状況でうまくいくわけもなく、「何を考えているのかわからない」だったり「本当に私のこと好きなの?」だったりは散々言われてきました。

それでも僕なりに本心は曝け出してきたつもりではあります。無論、仮面の方ではなく、本物の本心です。

でもやっぱりダメでした。泥で厚く塗りたくって作った仮面はそう簡単に剥がせる代物じゃなかったです。どうしても心の底で警戒心だったり、恐怖心だったりが邪魔をして彼女に対してもいい顔をしてしまうんですね。そんな人間味の薄い人に惹かれる人なんてそうそういませんからね。みな僕からスッと離れていきました。

そうするとその悲しみからその仮面をよりいっそう分厚くこさえてしまうわけです。そうしてもう最近は何が本体で何が本心なのかよくわからなくなっておりまして、これが解離性同一性障害なのかとも思いながらどうしたもんかと手をこまねいているわけです。

こうなると人を好きになるということもよくわからず、「本当に自分はこの人のことが好きなのだろうか」などと思案を巡らすのですが、そこに答えなんてものはありませんし、好きとは何なのか、どういう気持ちならば好きなのだろうか、この気持ちは本当に僕のものなのだろうか、社会に適合するために生まれた“模範的感情”のような類いのものではなかろうかなどと考えているわけです。

 

人を愛するとは難しいものですね。

さて、そろそろ目的地の福岡に着きそうです。

今回はこの辺で。

この話はノンフィクションですが、同情や哀れみや救いの手を求めているわけではないので、ひとつのエンターテイメントとして読み流していただけたら幸いです。それでは、また。

 

 

 

 

アインシュタインの人