ついに2017年最期の1日が来ましたね。
明日からは2018年ですが、2018年が終われば平成の元号も最期になります。
齢24にして「終わる」というものを経験することが増えてきました。誰かの人生が終幕したり、学生という身分が終わったり、平成が終わったり、ですね。
年末は、なんだか、こう、言い表せない寂しさのようなものがありますね。
1年が終わることへの寂しさというよりも、今まで幾度もこうして1年を置き去りにしてきたその屍にまた1年を重ねていくことの無常さというか、終わりのないこの時間の流れを否が応にも意識せざるを得ず、その途方もなさに無力感に包まれるというか。
ゴーギャンの絵画のタイトルにもありますね。
我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか
年末はそれを否応にも強く感じてしまう時期ですね。
僕の小さいころは大晦日は近所のお寺に除夜の鐘をつきに行ってたんです。本当にまだ小さいころですから、普段は9時には布団に入らされるところを12時まで起きることを許され、無性に興奮していたのを覚えています。ある意味クリスマスや誕生日なんかよりも1年で一番特別な1日だったように思います。
いつもはお風呂に入ってパジャマに着替えるところをパジャマではなく普段着を着て、夜11時ごろになるとダウンにマフラーに帽子に耳あてにと完全な防寒をして、祖母に見送られながら両親と兄と4人でお寺に歩いて向かっていました。田舎なものですから12月の寒さは厳しく、鼻を真っ赤にさせながら、ポツリポツリと立つ街灯を頼りに舗装もされていない道をてくてくと歩いたものです。
目が暗闇に慣れてきたころにふっと空を見上げると一面の星空がありました。その美しさに、星空をずーーっと見つめているとだんだんと上も下も右も左もわからなくなってくるのです。真っ暗闇の中をぐるぐると回っているようなそんな心持ちになるのです。母親の「前向かんと危ないよ」の声で我に返って前を向くと両親や兄が少し先で待っています。それをいつも駆け足で追っていました。
お寺に到着すると顔馴染みの住職さんが「こんばんは。今年もよく来たね。」と声をかけてくれ、暖をとるための焚いていた火の近くまで連れて行ってくれました。ダウンジャケットを着ているものですから、母親に「火の近くに行きすぎると溶けるよ!」と怒られ、子どもの僕は何が溶けるのだろうとその意味もよくわからないまま、遠くから焚き火のゆらめきを見つめていました。
そうこうしているうちに住職さんが鐘をひとつ鳴らしまして、それからは1列に並んだ一般の人が交互に鐘をついて、除夜の鐘を行いました。その鐘をつくのが、まだ子どもだった僕と兄は大好きで、鐘を鳴らしては列に並び、鳴らしては列に並んでいました。
しかし、108つの鐘を鳴らし終わるころにはいつも僕は眠ってしまい、気づくと布団の中で正月の朝を迎えているのです。そうすると昨日の夜の出来事は夢だったのではないかと不安にも似た疑問が生まれるのです。なにせいつ寝たのか、どうやって帰ったのか、なぜ布団に入っているのか、あのとき着ていた普段着はいつパジャマに変わったのか、それらがわからないからです。ただ、昨日の夜に眺めた星空と星空に吸い込まれる感覚、眩しく揺れる火とその熱の感覚、重く鈍く響く鐘の音のみがありありと身体に迫ってくるのです。その記憶の不確かさと感覚の確かさが、より一層、僕を混乱させたのです。
年末に僕が感じる不安のような寂しさのような無力感のような感情は幼少期のこういった体験から来ているのかもしれません。こういう言葉で表現できない複雑な気持ちは生涯大事にしたいものですね。
少し物憂げな気分で記事を書いてしまいました。年末だからということで許してください。
それではまた来年もよろしくお願いします。
アインシュタインの人