A. 風が吹けば桶屋が儲かる
明確な座右の銘かと言われると何とも言えないところだが、そういうもんだと思って生きているという意味ではやはり上記の言葉が当てはまるのだと思う。
一度か二度、過去の記事にも記載した言葉であるが、改めてWikipediaさんの力を借りて意味を見ていこう。
風が吹けば桶屋が儲かる(かぜがふけばおけやがもうかる)とは、日本語のことわざで、ある事象の発生により、一見すると全く関係がないと思われる場所・物事に影響が及ぶことの喩えである。また現代では、その論証に用いられる例が突飛であるゆえに、「可能性の低い因果関係を無理矢理つなげてできたこじつけの理論・言いぐさ」を指すことがある。
なるほどなるほど、まあ床下が考えていた意味と相違ない。
要は以前話したバタフライエフェクトと大体同じである。
では、何故風が吹くと桶屋が儲かるのか、こちらもWikipediaさんに助けていただこう。
- 大風で土ぼこりが立つ
- 土ぼこりが目に入って、盲人が増える
- 盲人は三味線を買う(当時の盲人が就ける職に由来)
- 三味線に使う猫皮が必要になり、ネコが殺される
- ネコが減ればネズミが増える
- ネズミは桶をかじる
- 桶の需要が増え桶屋が儲かる
ううむ、2がかなり無理があるように思えるが、まあいいだろう。
ところでめちゃくちゃ脱線しますが、Wikipediaについて皆さんはどういう意見をお持ちだろうか。
大学教授たちのような学術界でしのぎを削る人間からすると、Wikipediaは非常に邪悪な存在として扱われがちである。
というのも、Wikipediaの編集は誰が行なっているか明確にされていない。
その単語にめちゃくちゃ詳しい人が書いている時もあれば、にわか知識の初心者が書いている場合もある。
「いやしかし、Wikipediaにも参考文献が脚注として記されているじゃないか」と言う方もいるだろう。
確かにそう、脚注にはその知識が事実であると述べられている文献が記載されている。
しかしここで問題なのは、参考文献が必ずしも正しいとは限らないのだ。
論文や書籍として世に出ていたとしても、間違った事実を伝えている場合というのは往々にしてある(後々訂正の論文が出たりする)。
更に、先述したように、Wikipediaは専門家もにわか者も編集が可能である。
にわか者には、その文献が正しいかどうかというところまでは判断できるかと言われればそうではない。
何なら専門家でもその判断は難しいことが多い。
その上に、にわか者特有のずれた解釈が加わった上で編集が行われたならば、もう手がつけられない。
こう言った理由から、Wikipediaは危険だと言われているのである。
と言っても、実のところ最近のWikipediaはその危険性の改善が著しく、一概に悪かと問われるとそうとも言えないと床下は思っている。
対象項目の説明に関する参考文献を探すという意味では非常に優れたツールであるし、文献を読んで自分の中でまとめるよりは手早く簡潔に項目に対する理解を深めることができるからだ(怪しい文章を精査する必要はあるが)。
特に英語版のWikipediaの質は説明の専門性が日本版の数倍上なので、みんな積極的に使っていけばいいと思っている。
さて本題に戻ると、何故床下は「風が吹けば桶屋が儲かる」が座右の銘なのか。
それは紛れもなく、この言葉を「何事もその通りだ」と信じて疑わないからだ。
以前の記事で、床下は「嫌いなものがあまりない」という話をした。
それは「嫌いだと思ってしまうのは、自分の器量の小ささが故だ」と思ってしまうからだという話もしたと思う。
今回の話はそれに付随する。
床下が何かや誰かを嫌いだと思ったとする。
床下は、その嫌いという感情が、回り回ってどこかの場面で、選択を迫られた床下の次の一手に影響を与えているのではないかと勘繰ってしまう。
もしその時の選択で床下が嬉しい思いをした場合、嫌いという感情が功を奏したことになるわけだ。
そうなってくると、床下は嫌いという感情に感謝せざるを得なくなる。
はらわたが煮えくり返るほど嫌いな相手で合っても、その感情が床下に何か恩恵をもたらした時、何とも言えない気持ちになったことは何度もある。
この矛盾は幼い頃の床下を非常に苦しめる要因となったが、「風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉を知って以来、随分吹っ切れたように思える。
床下が受け取る情報や意見や感情、それを受け取ることで得た自身の感情、起こした行動、道端に生えてる雑草、意味もなく流すラジオ、そういったもの全てに自覚せずとも意味があって、どこかで繋がって未来の床下に影響を与えるものだ。
だから抱く感情のプラスマイナスに依らず、全てのものに感謝をすることが重要だと床下は思っている。
そんなことを思っていると、床下の感じる嫌いという感情はいつの間にか普遍的な嫌いという感情とは一線を画したものになってくるのだ。
床下が好きなラッパーは、即興ラップでこんなことを言っている。
過去ってのは現在(いま)に繋がる過程だ
なら現在(いま)は、未来に繋がる糧だ
いや、もう本当に、まさにその通りとしか言えない。これを即興で歌ってるんだから正直感嘆ですよ。
まあとにかく、床下は「繋がり」を知ることが好きでたまらないわけです。
ドラマやアニメのキャラクターの相関図を見たり
現実のコミュニティで誰と誰が仲良くてどこが付き合っててというのを調べたり
Facebookで顔と名前ぐらいしか知らない人のページに飛んで共通の友人欄を見たり
特に企業側が努力したわけでもないのに株が高騰してる企業の要因を調べたり
ということが非常に好きなのです。
だからできることなら、全てのものに自分との繋がりを見出したいなどと傲慢な考えを持ってしまったりする。
それはまるでBase Ball Bearの「Stairway generation」に出てくる人間みたいに。
Stairway Generation
階段をあがれあがれ
そして 聞こえますか? 繋がれますか?
あなたと one way
そんな中で最も床下の「繋がり」欲を満たしてくれるものというのが、またもやですがWikipediaなんです。
Wikipediaは項目のある単語はリンクがついているから、繋ごうと思えばいくらでも繋げられるのです。
Wikipediaは本当にいつまでで見ることができて、コカインについて調べていたのにいつのまにかM-1グランプリの歴代優勝コンビを調べていたりするぐらいのめり込んでしまうし、友人と「10リンクで『バナナ』から『ヒッグス粒子』に飛べた奴が勝ち」というゲームをやるぐらい好きなんです。
しかしこのWikipediaで満たす「繋がり」欲はやっていると本当に水に綿あめを溶かすが如く時間が消え去ってしまうので、修論執筆に追われている現在の床下としては非常に厄介な存在になっております、つらい。
ところでアインシュタインの人さん、ブログに関して言及していただき誠にありがとうございます他人の範囲 - 仮説トイレ。
パーソナルスペースの話をすると、床下は非常に狭いように感じます(表現合ってるか?)。
正直、誰に肩にもたれかかれようと全く不快感を感じないし(臭い人だけは無理です、すいません)、ラーメン屋も詰めて席に座ってしまいます(臭い人だけは無理です、すいません)……。
壁という話で言うと、床下は誰にも等しく無礼かつ偏見なくかつ怖気付かずに接するようにしていて(臭い人だけは無理です、すいません)、それを認めてなおかつ同じように返してくれる人が「友達」で、そうじゃない人が「知り合い」という感じなので、あまり壁を意識したことはないです。
壁と言うより、野球場に全ての人間がいて、床下が全員に向かってノックして返球が来るかどうかみたいなイメージです、よろしくお願いします。
まあいくら返球してきても、臭い人だけは無理です、すいません。