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わかられた…

誕生日、ありがとう

先日10/6は僕の誕生日でした。毛沢東堀北真希と同じ誕生日です。
今年の誕生日は例年にないほど数多くの方からお祝いメッセージをいただきました。本当にありがとうございました。とても嬉しかったです。

 

というわけで今日は誕生日について考えてみましょう。
詳しく言うと「誕生日、おめでとう」という文言についてです。誕生日は何がめでたいのでしょうか。


誕生日は365日のうちの1日です。その期間は一定であり(うるう年は1日増えますが)、365日経過すれば必ず巡ってくる日です。1年のうちに1日しかないのでレア度的な意味ではめでたいのかもしれません。
しかし、オリンピックやワールドカップの開催は4年に1度。レア度的にはこちらの方が高そうですね。でもオリンピック、おめでとう、ワールドカップ、おめでとう、というのはあまり聞いたことがありません。つまり、レア度的な観点からの賞賛の言葉ではないことが推測されます。(まぁ実際はオリンピックやワールドカップは4日以上継続して行われるので誕生日の方がレア度は高いのですが)

 

では何が「めでたい」のでしょうか。無事に1年が経過し、1年契約の生を更新することができたことに対する祝いの言葉でしょうか。
しかし、医療が発達し、食料も潤沢な現代において生を更新することは祝うほどの出来事でしょうか。どうやらこの線も怪しそうですね。

 

他には何が考えられるでしょう。誕生日の性質から考えてみましょう。
誕生日を迎えるということは戸籍上、歳をひとつ重ねるということです。人が大人になることを一つのステイタスとするなら若年者に対してはこの文言は正しいのかもしれません。つまり、子どもに対しては「大人にひとつ近づけてめでたい」という意味で誕生日はめでたさを持つということです。
ですが、「誕生日、おめでとう」はともすればご年配の方にも使うことがあります。まあご年配は「生きてまた歳を重ねることができた」というめでたさがあるのかもしれません。
では30代、40代、に「誕生日、おめでとう」と投げかけることは正しいのでしょうか。換言すれば30代、40代の人にとって誕生日はめでたいものであるのかということです。すでに大人である彼らにとって、誕生日は「大人にひとつ近づけるめでたさ」も「生を更新できためでたさ」も持ってはいません。
これでは誕生日が普遍的にめでたいものであることが立証できません。

 

ここで、誕生日はめでたいものであるという前提に疑問を投げかけてみましょう。
誕生日はめでたいものなのでしょうか。
こう考えてみると誕生日はめでたくない要素がボロボロと湧いてきます。誕生日の日は誕生日ということ以外に特別なことは何もなく、普通に仕事をして、普通にご飯を食べて、普通に寝る。誕生日だからといって身長が伸びたり、寝なくても活動できたり、顔が少し美形になったり、口から火が吹けたりはしません。何もめでたくはないです。
ここまでくるとめでたいってなんなんだ。何がめでたくて何がめでたくないのか、その基準はどこなんだ、みたいな話になりそうですね。

 

そうですね、ここに「誕生日、おめでとう」の落とし所があるのかもしれません。
めでたいのかめでたくないのかは人それぞれだからめでたいと思う人はめでたいし、めでたくないと思う人はめでたくないのです。
人それぞれだなんて元も子もない結論ですが、これが折衷案としては最適なのではないのでしょうか。

 

人は何かにつけてイベントを持ち込みたい生き物です。ハロウィンやクリスマス、正月、誰かの誕生日。それぞれの日は人々がイベントを楽しむためのこじつけのようなものです。そこには恣意性しか存在せず、絶対的なめでたさなどは存在しないのでしょう。

 

ここで僕が以前、誕生日でもなんでもない日に「今日、誕生日なので祝ってください」と虚偽のツイートをしたときにメーンメンバーのnxyくんからきたリプライを紹介します。

 

 

 

 


祝え!なんでもない日!
バンザーイ🙌🙌🎂🎉🎉

 

 

 

至言ですね。もう何も言うことはありません。


さて、最後になりますが、誕生日を祝ってくださった皆さん、本当にありがとうございました。みなさんのお祝いのおかげで、僕の今年の誕生日はめでたいものとなりました。これからもよろしくお願いします。

 


アインシュタインの人