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誰の為に生きるのか〜メンヘラクソ野郎のみなさんへ〜

みなさんは誰の為に生きていますか?

自分の為に生きている人、誰か1人の為に生きている人、誰か複数人の為に生きている人がいると思います。

さて、私たちは誰の為に生きるのが正解なんでしょうか。ここで言う「正解」とは他者への依存や独りよがりを避け、社会を円滑に渡ることのできる心のありようのことを指しています。誰の為に生きれば“よい”生き方を実践できるのでしょうか。

 

まずは「自分の為に生きるべき」か「誰かの為に生きるべき」かに大別して考えてみましょう。“誰か”の単複については今は無視します。

アインシュタインの名言にこんなものがあります。

誰かの為に生きてこそ、人生には価値がある。

なるほどさすがアインシュタイン。いいこと言いますね。

誰かの為に生きるとは喜捨に通ずるものがあるかもしれません。誰かに施しをすることで功徳を積む。誰かに頼りにされることで生きる意味を感じる。ヒトは社会的な動物ですからね。そこに人生を位置づけるのは正しいことかもしれません。

 

では、自分の為に生きる派の意見も考えてみましょう。

THE ORAL CIGARETTESの接触という曲の歌詞にこんなものがあります。

誰かのために生きるなんて苦しいだけじゃないか?
君もなにも変わりやしない 僕も一緒だ
裏切ってくんだろ?

なるほど…なるほど……。僕自身もメンヘラクソ野郎なので気持ちはとてもわかります。一般的なメンヘラクソ野郎がどう考えてるかは知らないですが、僕の場合は「幸せがあるから不幸が生まれる。最初から幸せなんてなければ不幸も生まれない。」みたいな思考をしています。期待をするから裏切られる、出会いがあるから別れもある、だからそもそも期待をしなければ、出会わなければつらい思いはしなくていいんだ、と。つまり、自分でコントロールのできない他者に望みを抱かず、自分の為だけに生きていれば幸福は訪れる、といった感じですね。

 

さて、困りましたね。どちらの意見も正しく、魅力的に見えます。自分の為に生きるのもきっと正しいです。誰かの為に生きるのもきっと正しいです。

ここで「誰か」の単複について考えましょう。つまり誰か1人の為に生きることと、誰か複数人の為に生きることについてです。

Twitterでバズっていたツイートを参考にすると、「依存先を1人に絞るから立ち行かなくなる。複数の依存先を持っていれば負担は軽減される。」という旨の話があります。なるほど、これもたしかにそうかもしれません。誰かを頼りたくなった時に誰か1人に頼り切ってしまえば、その人は嫌気がさすでしょう。ですが、依存先を恋人、友人、親、など複数持っていれば、誰か1人に頼りすぎて嫌がられる事態も防げるかもしれませんね。

こう見ると誰か1人の為に生きるのは悪いことのように見えてきます。ただ、少し考えてみてください。将来は誰か伴侶を見つけて、その伴侶の為に、ひいては自分の子どもの為に生きることになります。少なからず、誰か1人の為に生きる期間は訪れるはずです。どうしたものでしょうか。

 

ここでこの解決策として私見をひとつ。

僕はこう思います。「基本は自分の為に生きるべき。自分以外にも手が回るときはそのときは誰かの為に生きればよい。それは誰か1人でも複数人でも構わない。」というものです。

喜捨の考え方も基本的にはそうです。経済的に余裕のある者が、余裕のない者に施しを与えるのです。自分のこともままならないのに、誰かのために尽くすのは愚策というものです。過去の僕も含め、そこらへんをキッチリ理解していないメンヘラクソ野郎が世の中には跋扈しているように思えます。「あなたと別れるぐらいなら死んだ方がマシ」だなんて発言は、自分の為に生きられないような人が自己の存在意義を他人に丸投げしているから出てくるものです。それは「正解の生き方」とは程遠いものでしょう。

まずは自分が自分の為に生きているかを再確認しましょう。恋愛や生きる意味なんかの話はそこからです。自分で自分を満足させられるように考え方、生き方、人間関係を見直していきましょう。もし、あなたが自分の為に生きていない人ならば、嫌いなものは全て遠ざけ、好きなものばかりで自分を取り巻くのです。八方美人になる必要は全くありません。

メンヘラクソ野郎のあなたに幸あれ。

 

 

 

アインシュタインの人

2017年の漢字は「人」です。花丸木

 

久方のブログ。


最近ハリネズミが手乗りしてくれるので、毎日遊んでいる花丸木ですこんにちは。

 

 

ミルトンたんからの『今年の漢字』をテーマにして、ブログを書いてという案。

いいね、書くぞ!!

 


メーンのブログ、床下さんの更新頻度にはすげーなーと思うし、文章上手だし、毎回楽しみにしています。
みんなの文章もすきだからもっとアップしてほしいです、お願いします!

 


でもどれだけ考えても出てこなくてね、
寝る前にも考えてたら、夜中うなされてたらしい。
(好きな人談)
どんだけ思いつめてるんだオイオイって感じだけど、なかなか出てこない。

 


今年はなんだか特殊な1年で、
とにかくめちゃくちゃたくさんの人間と接しざるを得ない状況で、常に人と関わっている。
去年は人間を避けて生きた1年だったから、真逆に近いのかもしれないな。

まあ無理やり集団の中に入れられた時期もあったけど、とてもつらかった。

 


それでも今年は人と関わる時間は去年と比べものにならなくて、正直なところかなり疲弊している。
メンタルやられまくっておかげさまで6キロくらい落ちて、オーダーメイドの制服もゆるゆるになってしまった。クソが。

大好きな大好きな泡盛キャンペーンガールとしてやってきたけど、なかなか、こう…なんていうか…

 

 

思ってたんと違う!!!!!!!!!!

 

 

と感じることが多い。

まあ世の中のだいたいはそんなもんかと思うけど、
女王になったからこそ、出来なくなったことの方が増えたからそう感じてしまうのかなと思う。

例えば1人で飲み歩いちゃいけない、どの泡盛を美味しいと言っちゃいけない、泡盛のイベントに参加するのは控えなきゃいけない…

 


今まで好きだからやってたことを、泡盛のためにと思ってなった女王という肩書きでできなくなるつらさな。

 

そういう制限がある中で、社会の不条理だったり組合の腐ったやり方だったりお客さんの過度のおさわりだったり、ストレスになることがあまりにも多くてもうヘトヘトな今日。

 


それでもワシは女王であることを放棄できない。

 

 

手帳に書きとめておいたみんなからの言葉を書き出してみる。


上司「女王はただのアイドル。英語でアイドルは偶像。泡盛の役に立とうとか思うな。いつもの最高の作り笑いで人と接しろ、顔を広げろ。お前にとって女王はただの通過点でしかない、ひとつの経験だと思ってやれ。」

 

マナーの先生「こんなに泡盛好きな人が女王なったのは32年間で初めてよ、自信持って頑張ってね。」

 

事務所の社長「お前の泡盛への愛はこんな肩書きで収まらないと思うけど、やれることはやってみろ。」

 

好きな人「ひなのの泡盛への愛は絶対伝わるから大丈夫」


みんなに支えられてここまでやってこれたなあと思った、今思った。

 

 

感謝…

 


2017年の漢字決まった、

 


「人」

 

 


です。
いい意味でも、悪い意味でも。
ありきたりで面白くはないけど…

人に疲れて人に支えてもらったな。

 

 


女王になったからよかったなってマジで思うのは、京都でメーンのみんなと会えたこと。
ありがとう、また会いたい。

 

 


2017年はあと20日くらいだけど、女王は年度末までなのであと3ヶ月半、頑張ります。

 

 

2018年は、少し休んでからやることやります。
4/1の加山雄三センパイのコンサートもスッッッゴイ楽しみ。

 

来年は仏メンタルになれますように…🙏

 

 

 

 

 

みんな勘違いをしている。

先日当ブログの管理主であるミルトンさんより指令が出た。

 

「全員、『今年の漢字』をテーマに記事を書け」と。

 

と言っても興味がないことはまったくと言っていいほど覚えてられない性分なので、愛用のiPhoneのカメラロールを遡りながら色々思い出していきます。自分の人生にさほど興味がないので今年のことなんて覚えてらんねえ。

こういうとき、日付ごとに写真を分けられるのはとても便利ですね。

今年の漢字はまとめたのちに発表しましょう。

 

さて、2017年、初っ端の大イベントは大学の卒業です。

まあでも卒業式の思い出は別にないので卒業旅行のことでも。卒業旅行は気の知れた友人数人と香川、愛媛、大分、福岡、山口、広島を1週間かけて車で駆け回り、美味しいものを食べ、温泉に浸かり、夜まで飲んで語って、という感じでした。思い出が一瞬で消え去る僕でさえ今でも鮮明に思い出せます。最高の1週間でした。

卒業に際しての最大のイベント、卒業論文の執筆時期には毎日のようにゼミのみんなと顔を付き合わせていました。ゼミのみんなはとても仲良くしてくれていて、卒業してそれぞれの道を歩き始めている今でも幾人かとは定期的に会っています。小中高と薄い友人関係を構築してきた僕には信じられないほど温かい方々です。生きててよかった。

 

その次は大学の入学でしょうか。

さっき大学卒業したって言ってなかったか?何言ってんだ?と思った方、せっかちですね。ちゃんと説明します。

大学卒業前は僕は大学院に進学する気マンマンだったのですが、卒業論文の執筆に際して「あ、俺研究職向いてねぇわ」と思い、進学するのをやめました。そして教員免許状の取得を目指して現在は通信大学へ編入しています。そういう意味での入学です。

ぶっちゃけ、この選択はめちゃくちゃ正解だったなと今はまだそう思っています。塾講師のアルバイトをしながら勉強をしているのですが、塾講師、クソ楽しい。天職か?ありがとう。教育実習でこの気持ちがどう転ぶかはわかりませんが、とりあえず精一杯やろうかなと思ってます。

あと、お父さんお母さん、いつまでもこんなのでごめんなさい。孝行します。頑張ります。

 

そして次は祖父の死ですね。

ウチの祖父が亡くなりました。思い返せば川でウナギを捕まえたり、船を出して沖釣りをしたり、草刈りをしていて鎌で自身の膝を抉ったり、マムシに4度ほど噛まれたり、崖から落ちたり、車で3度ほど事故ったり、こいつァ殺しても死なねえなってぐらいのパワフルじいちゃんでした。

マムシに噛まれたときに、そのマムシを捕まえてペットボトルに入れて「こいつでマムシ酒作ってくれ。俺は病院に行く。」って祖母に言い放ったエピソードは最高ですね。頭おかしすぎる。

そんな祖父も病魔には勝てなかったですね。まぁ孫悟空も心臓病で一回死んだし、そらそうかという感じです。特に感傷はありません。いい人生だったんじゃないかなと思ってます。

多分ウチのじいちゃんは泣かれても喜ばないと思います。またな!俺が行くまであと60年ぐらい待っててくれや!という感じです。

 

そしてメーンの設立ですかね。

ツイキャスで繋がった輪がここまで波及しました。すごいね。楽しいね。

ちなみにメーンの由来は山田の口癖「みんなーーーーーーーーーー」を言い換えたものらしいです。モリオカさんが名付けました。知ってた?

 

そういえばこれぐらいの時期に元カノと別れてますね。1月初めに付き合って5月初めに別れました。かなり短いですね。まあそういうこともある。

 

そんでもって半年ほどズバーンと飛ばして10月ごろにウチの兄貴の結婚式の前撮りがありました。前の記事にも書きましたが親族であれ僕にとっては僕以外は他人なので、そうか、おめでとうな、ぐらいの感情しかないです。特に思い入れもないですしね。

でもやっぱり結婚式っていいですね。特に兄夫婦がイチャついてたわけでもないんですけど、心にロウソクが灯るような温かみがじんわりと広がってきました。ポエマーっぽいですね、ウケる。俺も早く結婚してえ。

 

まあこれぐらいですかね。

上にはイベントとして書いてませんが、大学のゼミの友達とは今年だけで5回は旅行してます。

メーンのみんな(床下さん除く)と会う機会も結構ありましたし、毎週のように飲みに行く友達や、最近よく会う友達、バイト先の人達や新しい大学での出会いもありました。大学時代よりも友達と会ってるし、多くの友達ができたんじゃないかなと思ってます。

 

そんな僕が選ぶ2017年の漢字はこれです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

満足

 

 

 

 

 

 

 

いや、今年の漢字って言われてるけど誰も1字でとか指定してないし、これはルールの穴を突いた完全に正当なものなんですよね。みんな勘違いしてるって。

いや、普通わかるだろ…今年の漢字って言ったら普通1字だろ…みたいなのは受け付けません。空気は読みません。うるせぇ!!

俺は満足してるんだ!!!すべてに!!!!現状すべてに!!!!1字たりともおまけしてやらねえ!!!!ありがとうみんな!!!!ありがとうみんな!!!!ラブ、フォーエバー!!!!

 

 

 

アインシュタインの人

臭いのは繋がらない

100の質問
19. 座右の銘は?

 

A. 風が吹けば桶屋が儲かる

 

明確な座右の銘かと言われると何とも言えないところだが、そういうもんだと思って生きているという意味ではやはり上記の言葉が当てはまるのだと思う。

 

 

一度か二度、過去の記事にも記載した言葉であるが、改めてWikipediaさんの力を借りて意味を見ていこう。

 


風が吹けば桶屋が儲かる(かぜがふけばおけやがもうかる)とは、日本語のことわざで、ある事象の発生により、一見すると全く関係がないと思われる場所・物事に影響が及ぶことの喩えである。

また現代では、その論証に用いられる例が突飛であるゆえに、「可能性の低い因果関係を無理矢理つなげてできたこじつけの理論・言いぐさ」を指すことがある。

 


なるほどなるほど、まあ床下が考えていた意味と相違ない。

 

 

要は以前話したバタフライエフェクトと大体同じである。

 

 

では、何故風が吹くと桶屋が儲かるのか、こちらもWikipediaさんに助けていただこう。

 

 

  1. 大風で土ぼこりが立つ
  2. 土ぼこりが目に入って、盲人が増える
  3. 盲人は三味線を買う(当時の盲人が就ける職に由来)
  4. 三味線に使う猫皮が必要になり、ネコが殺される
  5. ネコが減ればネズミが増える
  6. ネズミは桶をかじる
  7. 桶の需要が増え桶屋が儲かる

 


ううむ、2がかなり無理があるように思えるが、まあいいだろう。

 

 

ところでめちゃくちゃ脱線しますが、Wikipediaについて皆さんはどういう意見をお持ちだろうか。

 


大学教授たちのような学術界でしのぎを削る人間からすると、Wikipediaは非常に邪悪な存在として扱われがちである。

 

 

というのも、Wikipediaの編集は誰が行なっているか明確にされていない。

 

 

その単語にめちゃくちゃ詳しい人が書いている時もあれば、にわか知識の初心者が書いている場合もある。

 


「いやしかし、Wikipediaにも参考文献が脚注として記されているじゃないか」と言う方もいるだろう。

 

 

確かにそう、脚注にはその知識が事実であると述べられている文献が記載されている。

 

 

しかしここで問題なのは、参考文献が必ずしも正しいとは限らないのだ。

 

 

論文や書籍として世に出ていたとしても、間違った事実を伝えている場合というのは往々にしてある(後々訂正の論文が出たりする)。

 

 

更に、先述したように、Wikipediaは専門家もにわか者も編集が可能である。

 

 

にわか者には、その文献が正しいかどうかというところまでは判断できるかと言われればそうではない。

 

 

何なら専門家でもその判断は難しいことが多い。

 

 

その上に、にわか者特有のずれた解釈が加わった上で編集が行われたならば、もう手がつけられない。

 

 

こう言った理由から、Wikipediaは危険だと言われているのである。

 

 

と言っても、実のところ最近のWikipediaはその危険性の改善が著しく、一概に悪かと問われるとそうとも言えないと床下は思っている。

 

 

対象項目の説明に関する参考文献を探すという意味では非常に優れたツールであるし、文献を読んで自分の中でまとめるよりは手早く簡潔に項目に対する理解を深めることができるからだ(怪しい文章を精査する必要はあるが)。

 

 

特に英語版のWikipediaの質は説明の専門性が日本版の数倍上なので、みんな積極的に使っていけばいいと思っている。

 

 

 

 


さて本題に戻ると、何故床下は「風が吹けば桶屋が儲かる」が座右の銘なのか。

 

 

それは紛れもなく、この言葉を「何事もその通りだ」と信じて疑わないからだ。

 

 

以前の記事で、床下は「嫌いなものがあまりない」という話をした。

 

 

それは「嫌いだと思ってしまうのは、自分の器量の小ささが故だ」と思ってしまうからだという話もしたと思う。

 

 

 

今回の話はそれに付随する。

 

 

 

床下が何かや誰かを嫌いだと思ったとする。

 

 

床下は、その嫌いという感情が、回り回ってどこかの場面で、選択を迫られた床下の次の一手に影響を与えているのではないかと勘繰ってしまう。

 

 

もしその時の選択で床下が嬉しい思いをした場合、嫌いという感情が功を奏したことになるわけだ。

 

 

そうなってくると、床下は嫌いという感情に感謝せざるを得なくなる。

 

 

はらわたが煮えくり返るほど嫌いな相手で合っても、その感情が床下に何か恩恵をもたらした時、何とも言えない気持ちになったことは何度もある。

 

 

 

この矛盾は幼い頃の床下を非常に苦しめる要因となったが、「風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉を知って以来、随分吹っ切れたように思える。

 

 

 


床下が受け取る情報や意見や感情、それを受け取ることで得た自身の感情、起こした行動、道端に生えてる雑草、意味もなく流すラジオ、そういったもの全てに自覚せずとも意味があって、どこかで繋がって未来の床下に影響を与えるものだ。

 

 

だから抱く感情のプラスマイナスに依らず、全てのものに感謝をすることが重要だと床下は思っている。

 

 

そんなことを思っていると、床下の感じる嫌いという感情はいつの間にか普遍的な嫌いという感情とは一線を画したものになってくるのだ。

 

 


床下が好きなラッパーは、即興ラップでこんなことを言っている。

 

 

 

過去ってのは現在(いま)に繋がる過程だ
なら現在(いま)は、未来に繋がる糧だ

 

 

 

いや、もう本当に、まさにその通りとしか言えない。これを即興で歌ってるんだから正直感嘆ですよ。

 

 

 

 

 

 


まあとにかく、床下は「繋がり」を知ることが好きでたまらないわけです。

 

 

ドラマやアニメのキャラクターの相関図を見たり

 

現実のコミュニティで誰と誰が仲良くてどこが付き合っててというのを調べたり

 

Facebookで顔と名前ぐらいしか知らない人のページに飛んで共通の友人欄を見たり

 

特に企業側が努力したわけでもないのに株が高騰してる企業の要因を調べたり

 

 

ということが非常に好きなのです。

 

 

だからできることなら、全てのものに自分との繋がりを見出したいなどと傲慢な考えを持ってしまったりする。

 

 

それはまるでBase Ball Bearの「Stairway generation」に出てくる人間みたいに。

 

 

Stairway Generation
階段をあがれあがれ
そして 聞こえますか? 繋がれますか?
あなたと one way

 

 

 

そんな中で最も床下の「繋がり」欲を満たしてくれるものというのが、またもやですがWikipediaなんです。

 

 

Wikipediaは項目のある単語はリンクがついているから、繋ごうと思えばいくらでも繋げられるのです。

 

 

Wikipediaは本当にいつまでで見ることができて、コカインについて調べていたのにいつのまにかM-1グランプリの歴代優勝コンビを調べていたりするぐらいのめり込んでしまうし、友人と「10リンクで『バナナ』から『ヒッグス粒子』に飛べた奴が勝ち」というゲームをやるぐらい好きなんです。

 

 

 

しかしこのWikipediaで満たす「繋がり」欲はやっていると本当に水に綿あめを溶かすが如く時間が消え去ってしまうので、修論執筆に追われている現在の床下としては非常に厄介な存在になっております、つらい。

 

 

 

 

ところでアインシュタインの人さん、ブログに関して言及していただき誠にありがとうございます他人の範囲 - 仮説トイレ

 

 


パーソナルスペースの話をすると、床下は非常に狭いように感じます(表現合ってるか?)。

 

 

正直、誰に肩にもたれかかれようと全く不快感を感じないし(臭い人だけは無理です、すいません)、ラーメン屋も詰めて席に座ってしまいます(臭い人だけは無理です、すいません)……。

 

 


壁という話で言うと、床下は誰にも等しく無礼かつ偏見なくかつ怖気付かずに接するようにしていて(臭い人だけは無理です、すいません)、それを認めてなおかつ同じように返してくれる人が「友達」で、そうじゃない人が「知り合い」という感じなので、あまり壁を意識したことはないです。

 

 

壁と言うより、野球場に全ての人間がいて、床下が全員に向かってノックして返球が来るかどうかみたいなイメージです、よろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 


まあいくら返球してきても、臭い人だけは無理です、すいません。

他人の範囲

先日の床下さんのブログケーンヂくーん - 仮説トイレは読みましたか?

僕が言っていいものかとも思いますが彼はめちゃくちゃ変人ですね。無論、褒めてます。

 

みなさんご存知の通り、僕は話題を捻出するのが酷く不得手な人間です。初対面の人とは何の話をしたものかと考えあぐねますし、話題が尽きれば天気の話しか出てきません。こないだはあまりの話題のなさに天気の話を突き詰めすぎて、中学生の理科レベルにまで話を掘り下げてしまいました。嘘です。

話題が捻出できないという話を一般化しますと、つまり、僕はゼロからイチを作り出すのが至極苦手なんですね。その代わり、イチのものをヒャクにもニヒャクにも押し広げるのはとても得意なんです。その弊害として、先ほどのように話がどんどんあらぬ方向へとズレていくこともしょっちゅうです。なーにが中学生の理科レベルだ、もうちょっとマシな話をしろ。すみません。

そういうわけで、先述した床下さんの記事から少しインスピレーションを受けて、僕の話をしたいと思います。

 

さて、彼は記事の中で彼にとっての友達をこう定義しています。

つまり床下の友達は基本的に無神経で、相手の顔や言葉尻を捉えていちいち一喜一憂しないような人間ということだ。

なるほどといったところです。まったく共感はできませんが、彼にとってはこれが友達だそうです。友達の幅がかなり限定されていますね。共感ができない分とても興味深いので是非とも根掘り葉掘り聞きたいところですが、それは今回の記事にはそぐわないので割愛します。

僕にとっての友達は彼とはまったくの真逆で、顔を知っていて、一度でもメシを一緒に食えばそれはもう友達、と、かなり門戸を開いた感じになっています。最悪、名前を知らなくても友達認定してしまいます。僕のことは尻軽クソビッチと呼んでも差し支えないでしょう。

しかし、実はこれは逆説的に門戸を閉ざしている状況を作り出しているのです。

何を言ってんだこいつはという感じなので説明します。心理学部卒業なので少し心理学の話も盛り込みつつどういうことかを説明しましょう。めんどくさい話をしているので、めんどくさい人は読み飛ばして下さい。

人にはパーソナルスペースというものが存在します。これ以上近づかれると不快感を感じるという「物理的な」距離のことです。3人がけのテーブルがあって見知らぬ人と座るときに真ん中の席を空けて両端に座りたくなるアレのことです。ナワバリや武術でいう間合いのようなものだと理解してください。エドワード・ホール氏は自己を中心に取り巻く泡のようなものだと表現しています。

さて、物理的な距離を表すパーソナルスペースですが、これは相手との関係によって変化します。見知らぬ人に肩を寄せられたら気持ち悪いですが、恋人に肩を寄せられたら受け入れますよね。そういうことです。

つまり、心理的な距離が物理的な距離に反映されて現れているようなものだと解釈できます。

そして、自己を中心に、家族や恋人が位置する親密エリア、友達などの友達エリア、知り合い程度の顔見知りエリア、赤の他人の他人エリアが同心円状に形成されるとイメージして下さい。(名前は俺が勝手につけました。ちゃんとした名称もあります。)

で、この友達エリアが僕の場合、顔見知りエリアにまで拡大されているってことです。門戸を開いているってのはこういうことです。みんなにとって顔見知りに位置する立場の人も僕にとっては友達に分類されます。そして、もちろんエリアの拡大は友達エリアのみにとどまりません。つまり、親密エリアも友達エリアにまで拡大しています。すなわち、友達の基準が甘い僕にとって友達は、みんなのイメージする友達よりも自己から距離の遠い場所に位置する存在なのです。これが門戸を閉ざしている、の意味です。

さて、ここまでまじめに読んで理解してくださった方は疑問に思うかもしれません。親密エリアが拡大しているなら、自己のエリアは拡大していないのかと。親密エリアは自己のエリアに侵食されていないのかと。その通りです。素晴らしい。ハナマルをあげます。

そう、自己のエリアも無論、拡大しています。しかし、自己は自己であり、その大きさは変化しようのないものです。つまり、自己と親密エリアとの間に空間が生まれ、そこに俺はあの進撃の巨人もびっくり、ベルリンもびっくりの大きな大きな分厚い壁をこさえています。俗に言うATフィールドというやつですね。カッコいい。床下さんの場合はその壁の中に自己のほかに友達も入っているのかもしれない、とそんなイメージをしています。

そして、ここでタイトル回収です。

あなたにとって、他人の範囲とはどこからでしょうか?文字通り、赤の他人のことを指しますか?

僕にとっての他人は僕以外の人すべてを指します。

家族も、恋人も、友達も、赤の他人も、みんな他人です。そこにある差異は、思い出の数と、関わる責任と、それぐらいです。みな、等しく価値を持ちます。

そして最後にひとつ。他人に優しく!

 

 

 

アインシュタインの人

主人公は死ぬべき

100の質問
17. 恋愛ドラマとコミカルなドラマ、どっちが好き?

 

A. コミカル

 

 

またもや文句をつけたくなる質問が来てしまった。

 

何故にこの2択なのか本当に疑問である。

 

数あるドラマのテーマからこの2つを対称的なものとして選んだ理由が不明だし、そもそもこの2つの概念は床下の中では同じカテゴリーに存在するものではない。

 

 

 

 

ドラマや映画や小説といった「ストーリー」を展開するにあたって、そこには「目的」と「雰囲気」がある。

 

 

 

「目的」というのは例えば

 

「地球を救う」だったり

 

「復讐を果たす」だったり

 

「何かの問いに対して答えを出す」だったり

 

要は明確なゴールがあるものだ。

 

 

 

一方「雰囲気」というのは、その目的を達成するまでの道中がどういうものかというところだ。

 

凄惨なまでに残酷であったり

 

重苦しく悲しみに満ち溢れていたり

 

笑いあり涙ありだったり

 

単純にめちゃくちゃコメディだったり

 

 

ストーリーを構成するこの2つの要因は、特に強い因果関係を持っているわけではない。

 

「復讐を果たす」が目的であるからといって、必ずしも重苦しい雰囲気でストーリーを進める必要はないように。

 

 

 

そういった意味で今回の2択を考えてみると、やはりどうにも納得がいかない。

 


「恋愛」はどちらかといえば「目的」に属される。

 

「運命の相手と結ばれる」というメインテーマとして扱われることもあれば、「メインテーマの達成を通して愛を育む」というサブテーマ的立ち位置として扱われることもある。

 

 


一方、「コミカル」というのはどう見ても「雰囲気」に属するものだ。

 

別に地球を救おうが、復讐を果たそうが、運命の相手と結ばれようが、それをコミカルつまり喜劇的に展開させることは何ら問題ない。

 

 


よって、この2つはどう考えても相反するようなものではないということだ。

 

 

まあしかし敢えてこの2択で答えを出すとするなら、床下は迷わず「コミカルなドラマ」を選ぶ。

 

というのも、床下はあまり重苦しい雰囲気は好きではない。

 

面白いと思わないわけではないが、観るのに体力を要するため、中々観ようと思うことができない。

 


そして、昨今の恋愛ドラマというのは得てして雰囲気が重くなりがちなように思う。

 

いや正確には「恋愛を主目的として選んでいるドラマ」であるが。

 

大抵が、主人公やその運命の相手が難病を抱えているし、もしくは凄惨な事故に遭うし、相手の義理の兄がめちゃくちゃ悪い奴だったり、元恋人がなんやかんや問題を起こすし、ヒロインは十中八九レイプされる。

 

 

 

 

 

 

正直

 

やってられない

 

 

 

 

 

 

 

 

ひたすら重い、ひたすら地に堕とそうとする。

 

それでも愛って奴ぁ素晴らしいね、と最後に締めくくろうとするかのように。

 

制作者はKANの愛は勝つを相当聴き込んでいたに違いないと疑ってしまうほどだ。

 

恋や愛はそんなに貶めないと語れないものなのかと観てて辛くなってくる。

 

だから所謂恋愛ドラマというやつはあまり観る気がしない。

 

床下的には、惚れた腫れたの話はもう少しポジティブに語ってもらいたいと思わずにはいられない。

 

Base Ball Bearの「LOVE MATHMATICS」の歌詞みたいに、ダサくて笑える恋愛を床下は求めている。

 

 

檸檬を齧る君の事
ただただ見つめていたよ
月夜の晩にベランダで
想いを馳せて詠む五・七・五
1.2.3.4.5, +1.+2 and
君と僕の物語の始まりを告げた赤外線
君色の夜に布団の中で
輝くナンバー 090-2…
1.2.3.4.5, +1.+2 and x,y,z
=君が めくりめくる
今日も君が 四六時中
翼見えた 君の背中に
“You are the Venus”この例えどうだ
まだ解けない 君の気持ち
君+僕で「1」になりたいぜ
1.2.3.4.5, +1.+2 and you and me
=君が めくりめくる
今日も君が 四六時中
脳の右で 君と僕とが
million通り ABC
=君が めくりめくる
今日も君が 四六時中
数学似だが 恋ってやつは 公式にない
恋がしたいのさ この例えどうだ

 

 

 

はあ、世の中の恋愛ドラマが全部逃げ恥みたいな雰囲気だったらいいのに(観たことないけど)、いやさこの際世の中の恋愛ドラマのヒロインは全部新垣結衣がやればいいのに、なんて思ってしまう(関係ないか)。

 

 


とにかく床下はどんな「目的」のドラマであろうと、基本的に「コミカル」を求めている。

 

記事の紹介に上がった「エンジン」も、目的というかテーマはそこそこ重苦しい内容を含んでいるが、主人公の開けっぴろげな性格がそのストーリーに「コミカル」を加えることで、丁度よく笑って泣ける作品になっている。

 

床下はこういう「目的」と「雰囲気」が相反していながら、絶妙なバランスを保っている作品を好む傾向にある。

 

 


中でも宮藤官九郎脚本のドラマはその色が強く、床下が好きなドラマが数多く並ぶ。


どのドラマにも共通していることは、扱うテーマや目的がそこそこ重いということだ。


池袋ウエストゲートパーク」はその昔池袋で流行ったカラーギャングたちの抗争


木更津キャッツアイ」は主人公が余命宣告を受けている


「タイガーアンドドラゴン」は主人公がヤクザ

 

流星の絆」は両親を殺された三兄妹が復讐を企てる


うぬぼれ刑事」や「刑事ゆがみ」は主人公が殺人事件を取り扱う刑事


「ゆとりですがなにか」は現在の若者が抱える問題や就活の闇が描かれている

 

 

宮藤官九郎の作品にはいつでも暴力や殺しやクスリや避けられない死や現代社会の闇が内包されていて、しかしそれでいて「雰囲気」は終始コミカルである。


この絶妙なバランスに、彼独自の奇抜な伏線回収が加わることによって、観るものを笑わせながらも核心をつくような社会風刺を実現している。

 

 

ちなみにタイガーアンドドラゴンの主演はTOKIO長瀬智也さんなんですが、長瀬智也史上最もカッコいいです。

 

床下はこの作品の長瀬智也に憧れを持ちすぎて落語家になろうと夢見たほどです(そういう話なんです)。

 

 

 

 


今まで好きなドラマについてつらつらと述べてきましたが、嫌いなドラマも同じようにあります。

 


以前の記事で、「邪な感情が見える食べ物が嫌い」と書いたように、「邪な感情が見えるドラマや映画」が嫌いなのです。

 


「温玉乗っけたらお前ら喜ぶだろ?ほら食えよ?」みたいな店主の顔が想像できる温玉豚丼が大嫌いなのと同じように、「お前らこういう展開にしたら泣くんだろ?泣けよほら」という制作者の意図が見える作品は観る気が起きないのです。

 

勝手に床下を全米に加えるなと言いたい。

 

 

 

 

その典型例が海猿なんだよな。

 

仙崎をピンチに至らしめて仙崎ついに息絶えるかと思わせといて奇跡の生還ーー!!!!ほら!!!!!泣けるっしょ!!!!!??!!

 

 

 

 

何なんだこの茶番は。

 

 

 

 

何なんだ仙崎は。

 

絶対生きて帰るっつって本当に生きて帰ってきてんじゃないよ。

 

 

 

 

 


邦画には得てしてこういう展開の映画やドラマが多すぎて、そこら辺が邦画が評価されないところなんじゃないかと床下は常々思っております、草々。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もう少しアルマゲドンを見習ってくれ。

要するに間抜け

100の質問
16. 今の夢は?

 

A. 徳の高い人間になること

 

 

 

 

床下のこれまでの人生は「やりたいこと」より「できること」を優先してきた。

 

 

 

まだ一度も書いたことがないとは思うが、床下が現在農学部に所属している経緯はかなり複雑である。

 

 

 

 

中学生の頃は、宮大工になりたかった。

 

大工の立ち姿が好きというのもあるが、元々寺社仏閣に興味があったこともあって、それらを直す仕事というのはとても神聖なものに思えた。

 

床下の出身中学は地方の片田舎にあったため、友人は皆そこそこに不良で、勉強などテスト前に担任に怒られて仕方なくやるようなものだった。

 

両親が教師の床下としては、勉強を大事だという思いがあり、友人らと両親の思想の間で揺れ動き、その結果成績は見事に学年平均くらいだった。

 

だから、中卒で宮大工の元に弟子入りするという選択肢もあるにはあったが、ある程度の教養を身につけてからでも遅くはないと思い、適度に塾で勉強して適当な高校に行こうと思った。

 

 

 

 

 

 

塾に入って1ヶ月、偏差値が25上がった。

 

 

講師は驚きを隠せず、両親は「当たり前でしょ、ウチの子なんだから」と囃し立て、友人らには化け物扱いされた。

 

 

 

 

だが悪い気はしなかった。それまでの人生で何かで一番になった経験が無い床下としては、得難い優越感があった。

 


意志の弱い床下は

 

 

 


「まあ、進学校に行っても高卒就職はできるしな……」

 

 

 

 


などと思い、その優越感にもう少しだけ身を任せることにした。

 

 

 

 

 

 

見事に県内一位の進学校に合格し入学すると、高卒就職を考えている人間など1人もいなかった。

 

親の病院を継ぎたい、官僚に入ってこの国を良くしたい、起業したい、世界中を飛び回りたい、医学部志望の女の子と結婚してヒモになりたい、そのために大学に行きたい。

 

皆そんな奴らだった。

 


さてさて意志の弱い床下は

 

 

 

 


「まあ、大学に行っても宮大工にはなれるし、他の面白い道もあるかも……」

 

 

 

 


などと思い、大学進学を決意した。

 

 

大学について調べてみると、歴史学や考古学に興味を持った。

 

なるほど、こういう面から寺社仏閣に携わる道もあるか、と思い、一先ずは文系選択にするという旨を母に伝えた。

 

母は猛反対した。


「文系なんて今時働き口ないでしょ!しかも歴史学?!考古学?!昔のことを掘り起こしても金にならん!!!」


今の床下なら猛反論してるところだが、当時の床下にとって母は親兼担任のような絶対的存在で、反抗期など許されるものではなかった。

 

またもや意志の弱い床下は

 

 

 

 


「まあ、何かあるだろ理系にも……」

 

 

 

 


などと半ば適当になり始め、理系を選択することにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

理系学部について調べてみると、建築関係の学部に興味を持った。

 

なるほどなるほど、きちんと建築を学べば宮大工により近づけるな、と思い、工学部を目指すために物理化学を選択した。

 

 


しかしここで予期せぬ事態が起こった。

 

最終決定の紙を見てみると、床下の欄が生物化学になっている。

 

 

おかしい、どういうことだ。

 

 

 

床下「先生、自分物理化学選択で書類出したんですが」

 

 

担任「は?いやいやいやもう遅いよ、何回も確認の紙出したじゃん。もう無理です。無理無理無理」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

確かに確認の紙を何回も貰ってはいたが、普通間違えないだろうと思い確認など一度もしなかった。なんたる仕打ち、神はいないのか。


しかしここでも意志の弱い床下は

 

 

 

 

 


「まあ、もういいか……」

 

 

 

 


などと完全に諦め、消去法で学部を選ぶことにした。

 

 

 

 

 

中学の頃のサボりぐせを引きずっていた床下の学業成績は、下から数えた方が圧倒的に早かった。


残り1年半、部活をやりながら勉強をして現役合格するのに、医学部医学科はきつい。

 

かと言って医学科以外は柄じゃない。

 

歯学部は歯医者がコンビニより多いって言うし。

 

じゃあ理学部か農学部

 

あ、農学部の方が定員多いしちょっと難易度低いじゃん。

 

じゃあ農学部で。

 

 

 

 

こんなもんである。

 

 

 

そんなこんなで流れに身を任せていたら大学院まで来てしまった。

 

 

 

 

 

つまり、床下は農学に対して何の興味もない。

 

実際、今やっている研究も「成果が出る」という喜び以外には何もない。

 

関心も抱いていない。

 

だからこれから就職する企業の仕事内容も、別に全く興味がない。

 

 

 

 

 

だが不思議と後悔はしていない。

 

 

 

 


進学校で出会った友人、大学で出会った友人、高校で学んだこと、農学部で学んだこと、それなりに全て大事だと思える。

 

 

 

これまでの人生がなければ、今こうしてこの文章を書くこともなければ、高校や大学の友人に出会うこともなかったし、食生活を気にしたりはしなかったし、ともすればメーンブログを書くことなど無かったかもしれない。

 

 

前回の記事で触れたバタフライエフェクトのように、これまでのよく分からない適当な人生があってこその現在、This is 床下であるのだから、そこには特に不満はない。

 

 

 

あの時ああしていればとか、ああなっていればという並行世界の未来の話をしても仕方がない。

 

 

 

Base Ball Bearの「HUMAN」という曲を聴けばそれが痛いほど分かる。

 

 

天啓や僥倖を待ち続ける人や
バイト先休憩室で無気力に煙草吸う人や
「共感」してるつもりで「同調」してるだけの人や
神経質こじらせてわけわかんなくなった人や
ぐしゃぐしゃのバースディケーキを前に佇む人や
「暇」というネガティヴの原因に気付けずにただ落ちゆく人や
購入してる人や
消費してる人や
美化してる人や
犠牲にしてる人や
信奉してる人や
贖罪してる人も
誰も彼も
満たされず

僕らただただただただ味わってる 僕らただただ味わってる
息をするように 人間味を
僕らだらだらだらだら味わって 僕らだらだら味わって
飽きてしまう 人間味に

 


この曲は人間を意味する「human」とローマ字読みの「不満」が掛かっている。

 

殆どの人間が不満を抱えて生きていて、でもそれでこその人間である。

 

 

 

 

 

床下が思うに、「やりたいこと」を優先できる人間というのは、選ばれし者だ。

 

それ以外の全てをかなぐり捨ててでも、それのみに心血を注げるような人間。

 

それだけの強い意志と才能を持った人間。

 

 

 

 


床下はそれとは程遠い。

 

家族は捨てられない。

 

友人は捨てれない。

 

お金は捨てられない。

 

地位は捨てられない。

 

捨てられないものが多すぎる。

 

 

今まで築いてきた交友関係や知識やキャリアを捨てることはできない。

 

 

そんなに意志の強い人間じゃない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


でも、だからこそ、せめて捨てられないものを大事にできるくらいの徳は持っていたいと思う。

 

 

「できること」を伸ばすことで、捨てられないものを守れる人間でありたい思う。

 

 

 

 

 

そのための今回のAnswer。

 

 

 

 

 

 

徳をツムツムである。

 

 

 

 

 

 


ちなみに皆さん、好き嫌いせずに食べるというのは徳積みの初歩ですよ。

 

 

 

 

 

 

 

ということで皆さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 


徳を積みたきゃ虫を食え